アイン・ジャールートの戦い

概要
モンゴル軍が野戦で初めて決定的に敗れた。大ハーンの死で主力が引き上げていた隙を、マムルークが突いた。
場所
32.55°N 35.35°E · イスラエル・北部地区(ジェズレル谷)
関わった人(1)
バイバルスAD1223年頃–AD1277年 · 前衛の指揮本文
1260年9月3日、パレスチナのガリラヤ地方、「ゴリアテの泉」と呼ばれる場所の近くで、エジプトのマムルーク軍がモンゴル軍を破った。西へ西へと広がり続けてきたモンゴルの征服は、ここで初めて大きく止められた。
その数年前、モンゴルの皇帝モンケは、弟フレグに西アジアの征服を命じた。1258年、フレグの軍はバグダードを落とし、500年続いたアッバース朝のカリフを殺した(バグダードの陥落)。1260年の初めにはシリアのアレッポを落とし、ダマスクスは戦わずに降伏した。残るイスラームの大きな国は、エジプトのマムルーク朝(マムルーク朝)だけになった。

マムルークとは、奴隷として買われ、兵士として育てられた人々のことである。多くは黒海の北の草原から連れてこられたトルコ系の若者だった。彼らはエジプトの王朝の親衛隊として力をつけ、1250年には主君を殺して自ら政権を握っていた。皮肉なことに、モンゴルの征服で故郷を追われ、奴隷として売られた者も多かった。モンゴルの騎兵と同じ草原の出身で、同じ戦い方を知っていた。
フレグは、エジプトのスルタン、クトゥズに使者を送り、降伏を迫った。クトゥズは使者を殺し、その首をカイロの門にさらした。もう後戻りはできない。

だがこのとき、モンゴルの側に大きな事情が生じていた。前の年、皇帝モンケが南宋との戦いの陣中で死んだのである。その知らせを受けたフレグは、主力を率いてシリアから東へ引き上げた。次の皇帝の座をめぐって兄弟のフビライ・ハンとアリク・ブケが争いはじめており、その成り行きを見守る必要があった。シリアには、キト・ブカという将軍が率いる一部の部隊が残された。その数は1万から2万ほどとされる。
クトゥズは、この機会を逃さなかった。軍を率いてエジプトを出て、海岸沿いに北上した。そこは十字軍の国々の土地だったが、アッコンの十字軍は、マムルーク軍が通ることを黙認し、食料も売った。彼らにとっても、モンゴルは脅威だった。

マムルーク軍の前衛を率いたのは、バイバルスだった。バイバルスは、モンゴルの軍をおびき出し、戦っては退くことを繰り返して、丘陵に挟まれた谷へ誘い込んだとされる。モンゴル軍がよく使う、偽りの退却の戦法である。谷で待ち構えていたマムルークの本隊が両側から襲いかかった。
戦いは激しく、一時はマムルーク軍の一翼が崩れかけた。クトゥズは兜を脱ぎ捨て、「ああ、イスラームよ」と叫んで兵を励ましたと伝えられる。モンゴル軍は崩れ、キト・ブカは戦死した。捕らえられて処刑されたとする記録もある。

モンゴル軍が戦いに負けたのは、これが初めてではない。それまでにも局地的な敗北はあった。だが、西アジアでモンゴルの拡大がはっきりと止められたのは、この戦いが最初だった。マムルーク軍は勢いに乗ってダマスクスとアレッポを取り返し、シリアはエジプトの支配下に入った。
勝利のあと、クトゥズはエジプトへの帰り道で殺された。手を下したのはバイバルスと仲間の将軍たちだった。アレッポを治める地位を約束されながら与えられなかったから、などの理由が伝えられる。バイバルスはそのままスルタンになり、17年にわたって国を治めた。彼はカイロにアッバース家の生き残りをカリフとして迎え、イスラーム世界の守り手としての地位を固めた。
その後もモンゴルは、何度もシリアへ攻め込んできた。フレグが開いたイル・ハン国(イル汗国)は、イランを本拠にマムルーク朝と半世紀以上にわたって争った。シリアの都市を一時取ったこともあったが、エジプトに入ることは一度もできなかった。ユーフラテス川のあたりが、二つの世界の境になった。モンゴルどうしの争いも、マムルークに味方した。北のジョチ・ウルスの君主はイスラームに改宗し、イル・ハン国と争ってマムルーク朝と手を結んだ。
マムルーク朝は、モンゴルを防いだことで、イスラーム世界の中心としての地位を得た。バグダードを失ったあと、カイロが学問と文化の都になった。マムルーク朝は、残った十字軍の拠点も次々に落とし、1291年には最後の大きな拠点アッコンを取った(アッコンの陥落)。エジプトとシリアを治めたマムルークの国は、16世紀にオスマン帝国に征服されるまで、250年あまり続いた。