ウフドの戦い

概要
バドルの翌年、メッカの3000がメディナに来た。ムハンマドは山の麓に700。弓兵が戦利品を取りに持ち場を離れ、ハーリドの騎兵が回った。ムハンマドは歯を折られ、叔父ハムザは殺されて肝臓を噛まれた。負けた。それでも、メディナは残った。
場所
24.50°N 39.61°E · サウジアラビア・メディナ
関わった人(1)
ムハンマドAD570年頃–AD632年 · 負傷本文
622年のヒジュラ(聖遷)で、ムハンマドと信徒たちはメッカからメディナに移った。メッカの支配層クライシュ族との対立は続き、624年、メディナの信徒たちはバドルでクライシュの軍を破った。少ない兵で大軍を破ったこの勝利は、神の助けのしるしとされた。メッカではクライシュの有力者が多く死に、その中には、のちにウフドで重要な役を演じるヒンドの父と叔父と兄もいた。
翌625年、クライシュは報復の軍を起こした。率いたのはアブー・スフヤーンで、兵は3000、馬200頭、ラクダ3000頭と伝えられる。妻のヒンドら女性たちも軍に従い、歌と太鼓で兵を励ました。軍はメディナの北、ウフド山の麓に陣を張った。

ムハンマドは、町の中にこもって守るつもりだった。だが、バドルに出られなかった若者たちが、外に出て戦おうと強く求め、ムハンマドはそれに従って鎧を着けた。1000人ほどで町を出たが、途中で、メディナの有力者アブドゥッラー・イブン・ウバイイが、自分の意見が退けられたとして300人を連れて引き返した。残ったのは700人ほどである。ムハンマドは山を背にして陣を敷き、側面の小高い丘に弓兵50人を置いた。騎兵に回り込まれないよう、何があっても持ち場を離れるな、と命じた。
戦いは信徒の側の優勢で始まった。クライシュの旗手が次々に倒れ、メッカの兵は崩れて逃げ始めた。そのとき、丘の上の弓兵の多くが、勝負はついたと見て、敵の陣に残された戦利品を取りに駆け下りた。残ったのは隊長ら10人ほどだったとされる。空いた丘の側から、クライシュの騎兵を率いるハーリド・イブン・アル・ワリードが回り込み、信徒の軍の背後を突いた。逃げていたメッカの兵も引き返し、信徒の軍は挟まれて乱れた。
混乱の中で、ムハンマドに似ていたという旗手ムスアブ・イブン・ウマイルが討たれ、「ムハンマドが殺された」という叫びが広がった。ムハンマド自身も、投げられた石で前歯を折られ、兜の輪が頬に食い込み、穴に倒れ込んだと伝えられる。アリーらわずかな者が彼を守り、山の斜面へ退いた。生きていると分かると、信徒たちは周りに集まって踏みとどまった。
この戦いで、ムハンマドの叔父ハムザが死んだ。勇猛さから「神の獅子」と呼ばれた人である。彼を倒したのは、エチオピア出身の奴隷ワフシーの投げ槍だった。ワフシーは、バドルで叔父を殺された主人から、ハムザを殺せば自由にすると約束されていた。戦いの後、ヒンドがハムザの遺体から肝臓を取り出してかんだ、と伝記は伝える。信徒の側の死者は70人ほどだった。
アブー・スフヤーンは山の上の信徒たちに呼びかけた。「フバル(メッカの神の名)よ、高くあれ」。ムハンマドに促されたウマルが答えた。「神こそいと高く、いと尊い」。アブー・スフヤーンは、来年またバドルで会おう、と言って引き上げた。クライシュの軍は勝ったが、メディナの町を攻めることはせず、ムハンマドを討ち取ることもできなかった。翌日、ムハンマドは傷を負ったまま兵を率いて追い、メディナがまだ戦えることを示した。
敗北は信徒たちに重くのしかかった。神が味方しているなら、なぜ負けたのか。クルアーンの第3章は、この戦いを語り、敗れたのは命令に背き、この世の利を求めた者がいたからだと説く。そして、これは信じる者と偽る者を見分けるための試練だった、とも述べる。持ち場を離れた弓兵の話は、規律の大切さを説く教訓として、今日まで語り継がれている。
その後の流れは、ウフドの結果とは逆に進んだ。627年、クライシュの大軍がメディナを囲んだが、信徒たちは町の周りに掘った塹壕で守り抜いた。628年にはフダイビーヤでメッカと和議を結び、630年、ムハンマドはほとんど戦わずにメッカに入った(メッカの征服)。ウフドで勝利をもたらしたハーリドは、629年にイスラームに改宗し、「神の剣」と呼ばれる将軍になった。ヒンドもメッカの征服の際に改宗した。ワフシーものちに改宗し、ムハンマドの死後、預言者を名乗ったムサイリマを同じ槍で倒したと伝えられる。

ウフドの山の麓には、ハムザと戦死者たちの墓があり、メディナを訪れる巡礼者が足を運ぶ。ムハンマドはウフドを、我々を愛し、我々が愛する山だと言ったと伝えられる。負けた戦いが、勝った戦いと同じくらい、あるいはそれ以上に語られてきた。