ムアーウィヤ
概要
メッカの名門ウマイヤ家の子で、ムハンマドの敵の側から改宗し、書記になり、シリア総督を20年務めた。従兄のカリフ暗殺の報復を掲げてアリーと争い、勝って世襲の王朝を開いた。「私は剣を使わずに済むところでは鞭を使い、鞭を使わずに済むところでは舌を使う」。
所属
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)関わったできごと(2)
スィッフィーンの戦いAD657年7月 · クルアーンを掲げさせたウマイヤ朝の成立AD661年 · 初代カリフ本文
ムアーウィヤ・イブン・アビー・スフヤーン。602年ごろ、メッカの有力なクライシュ族のうち、ウマイヤ家に生まれた。父アブー・スフヤーンは商隊を率いる町の指導者で、ムハンマドがメディナへ移ったあと、バドル、ウフド、ハンダク(塹壕)の戦いでメッカ側を率いて預言者と戦った。母のヒンドはウフドの戦いで、ムハンマドの叔父ハムザが討たれると、その肝を噛んだと伝えられる。後のシーア派の側から繰り返し語られた話で、どこまで事実かは分からない。ムアーウィヤは、イスラームの最大の敵だった家の息子だった。

630年、ムハンマドがメッカを開城させると、アブー・スフヤーンの一族も改宗した。ムハンマドは旧敵の有力者たちに贈り物をして心をつなぎ、読み書きのできたムアーウィヤを書記の一人に加えた。啓示や書簡を書き留める役である。のちに彼が「預言者の書記」であったことは、その権威の支えになった。
預言者の死後、アラブの軍はシリアへ攻め込んだ。兄のヤズィードはその指揮官の一人で、ヤルムークの戦いを経てダマスクスの一帯を治めたが、639年、アムワースの疫病で死んだ。第2代カリフのウマルは、弟のムアーウィヤを後任に据えた。続くカリフのウスマーンはムアーウィヤと同じウマイヤ家で、管轄をシリア全体に広げた。ムアーウィヤは20年にわたってシリアを治めることになる。

シリアは長くビザンツ帝国の州で、ギリシア語を話すキリスト教徒の役人と、整った税の仕組みがあった。ムアーウィヤはそれを壊さず、そのまま使った。財務を預かったのはキリスト教徒のサルジューンで、帳簿はギリシア語のまま付けられた。妻の一人は、キリスト教を信じてきたカルブ族の首長の娘マイスーンで、彼女の生んだ子が後継者のヤズィードになる。アラブの部族とシリアの土地の人々の両方を味方に付けたことが、ムアーウィヤの力の土台だった。
彼はまた、アラブで初めて本格的な海軍を作った。海を恐れたウマルは許さなかったが、ウスマーンが許し、649年にキプロスを襲った。654年か655年には、小アジアの南の沖でビザンツの艦隊を破った。帆柱がひしめくほどの海戦だったので「帆柱の戦い」と呼ばれる。

656年、ウスマーンがメディナで反乱者に殺された。次のカリフに立ったのは預言者の従弟で娘婿のアリーである。ムアーウィヤは、同族のウスマーンを殺した者たちを罰せよと要求して、アリーへの忠誠を拒んだ。ダマスクスのモスクには、ウスマーンの血に染まった衣と、夫をかばって切り落とされた妻の指が掲げられたと伝えられる。血の報復を求める正義が、そのまま政治の武器になった。
657年、ユーフラテス河畔のスィッフィーンで両軍がぶつかった(スィッフィーンの戦い)。戦いが不利になると、シリア軍は槍の先にクルアーンの紙を結んで掲げ、神の言葉で決着をつけようと呼びかけたと伝わる。アリーの陣営は割れ、勝負は仲裁にゆだねられた。ムアーウィヤの側の代理人は、エジプトを征服した老練なアムル・イブン・アル・アースだった。仲裁はアリーの権威を傷つけ、仲裁を受け入れたこと自体に怒った一派がアリーのもとを去った。ハワーリジュ派である。

661年、アリーはクーファのモスクでハワーリジュ派の男に刺されて死んだ。アリーの長男ハサンは、年金と引き換えにカリフの座を退いた。ムアーウィヤはただ一人のカリフとなり、都をダマスクスに置いた。ウマイヤ朝の成立である。
ムアーウィヤの政治をよく表す言葉として、アラビア語の史書は彼の言葉を伝える。私と人々の間にたとえ髪の毛一本しかなくても、それは切れない、彼らが引けば私は緩め、彼らが緩めれば私は引くからだ、と。また、鞭で足りるところでは剣を使わず、舌で足りるところでは鞭を使わない、とも言ったという。アラブは彼の流儀を「ヒルム」と呼んだ。怒りを抑え、侮辱を聞き流し、相手を待つ忍耐のことである。敵対した部族の長たちには贈り物を与えて取り込んだ。

扱いの難しいイラクには、ズィヤードを総督として送った。ズィヤードは父親の分からない男とされてきたが、ムアーウィヤは彼をアブー・スフヤーンの子、つまり自分の異母弟として認めた。預言者の教えに背くと非難されたが、有能な男を一族に迎え、イラクを固く押さえた。一方で、アリーを金曜の説教で呪わせることも始まったと伝えられ、ウマイヤ朝のカリフ、ウマル2世がやめさせるまで続いたという。
ビザンツとの戦いは毎年のように続いた。670年代には、海と陸からコンスタンティノープルを攻め、ビザンツが新しく使い始めたギリシア火に退けられたとされる。何年も都を囲んだと長く言われてきたが、近年はそれほどの包囲ではなかったと見る研究者もいる。
晩年、ムアーウィヤは息子ヤズィードを後継者に指名し、各地の有力者に生前のうちに忠誠を誓わせた。カリフを選ぶのではなく、父から子へ渡す。メディナの預言者の仲間の子らは強く反発し、これはビザンツやペルシアの皇帝のやり方だと言った。680年4月、ムアーウィヤはダマスクスで死んだ。70代の後半だった。預言者の髪と爪の切りくずを、自分の目と口に置いて葬るよう遺言したと伝わる。
死の半年後、アリーの次男フサイン・イブン・アリーがヤズィードへの忠誠を拒んで蜂起し、カルバラーで殺された(カルバラーの悲劇)。スンナ派とシーア派の分かれ目は、ムアーウィヤとアリーの争いと、その子どうしの悲劇から来ている。シーア派にとってムアーウィヤはカリフの位を奪った者であり、スンナ派の多くにとっては、預言者の仲間として敬意を払いつつ、王朝を開いた人として距離を置く相手である。

ムアーウィヤの作った国は、約90年後のアッバース革命まで続いた(アッバース革命)。部族の争いの中から生まれたイスラームの共同体を、ビザンツの役所の仕組みと世襲の王権を借りて一つの帝国にしたのは、メッカでムハンマドと最後まで戦った家の息子だった。