ピーリー・レイースの世界図

概要
20枚の古地図とコロンブスの地図を元にした、と余白に書かれている。南アメリカの海岸線が入っていて、その出どころが議論されてきた。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
ピーリー・レイースAD1465年頃–AD1553年 · 作図本文
1929年、イスタンブルのトプカプ宮殿を博物館に改める作業の途中で、一枚の古い羊皮紙が見つかった。ガゼルの皮に彩色で描かれた世界図の断片で、左側の三分の一ほどが残っている。署名はピーリー・レイース、日付はヒジュラ暦919年、西暦では1513年にあたる。描かれているのは大西洋で、右にイベリア半島と西アフリカ、左にカリブ海の島々と南アメリカの海岸線がある。コロンブスの到達から21年しかたっていない。
作者のピーリー・レイースは、オスマン帝国の海の男だった。叔父のケマル・レイースは地中海で名を知られた私掠船の頭目で、ピーリーは若いころからその船に乗り、北アフリカ、スペイン、イタリアの沿岸を荒らし、のちには海軍の提督として戦った。この地図を描いたのはダーダネルス海峡の港町ゲリボル(ガリポリ)で、のちにセリム1世のエジプト征服の際、スルタンのセリム1世に献上したとされる。

この地図がとりわけ珍しいのは、余白に作り方が書いてあることだ。ピーリーは、およそ20枚の地図と海図を見比べてまとめたと記す。その中には、アレクサンドロス大王の時代にさかのぼるという古い地図、アラブ人のインドの地図、ポルトガル人の地図、そしてコロンブスが描いた西方の地図があった。コロンブスの地図は、叔父ケマルが捕えたスペイン人の船乗りが持っていたもので、その男はコロンブスの航海に三度加わっていたという。コロンブス自身の地図は現物が残っていないため、この断片はそれを間接に伝えるほぼ唯一のものと考えられている。カリブ海の島々の配置や形には、そこをアジアの東の端だと信じていたコロンブスの考えが写っている、とする研究もある。
南の端では、南アメリカの海岸が急に東へ折れ曲がり、地図の下辺に沿って伸びている。1960年代、アメリカの著述家チャールズ・ハプグッドが、これは氷に覆われる前の南極大陸の海岸だと唱えた。失われた古代文明が南極を測量していた、という話にまで広がり、この地図は一時、超古代文明論の定番になった。しかし学界ではこの説は受け入れられていない。羊皮紙に収まりきらない海岸線を、余白に沿って曲げて描いたものと見るのが一般的で、当時の地図ではよくある処理である。

この地図が描かれた16世紀の初めは、オスマン帝国が陸の帝国から海の帝国へ変わろうとしていた時期にあたる。1453年にコンスタンティノープルを取った帝国は、東地中海の島々と港を一つずつ押さえ、1517年にはマムルーク朝を倒してエジプトと紅海の入口を手に入れた。同じころ、ポルトガルはアフリカを回ってインド洋に入り、香辛料の道を押さえにかかっていた。西ではスペインが大西洋の向こうに新しい土地を見つけた。ピーリーのような船乗りにとって、世界の形を知ることは、帝国がどこで誰と争うことになるかを知ることでもあった。
地図そのものは、航海に使うための海図ではなかったと考えられている。縮尺はまちまちで、陸には王や動物や伝説の怪物の絵が描かれている。献上品として、知られている世界の果てを一枚に集めて見せるためのものだったのだろう。新大陸の話はヨーロッパの外でもすぐに伝わり、オスマンの宮廷もその情報を集めていたことを、この地図は示している。

ピーリーの実用の仕事は、1521年に書き上げ、1526年に増補してスレイマン1世に献じた『海洋の書(キターブ・バフリイェ)』のほうにある。地中海の港、岬、浅瀬、水の補給地を、200枚を超える海図とともに記した航海案内で、写本が多く作られた。彼は1528年にも世界図を描いており、北大西洋の部分の断片が残っている。
晩年、ピーリーはインド洋艦隊を率いてポルトガル領のホルムズを攻めたが落とせず、艦隊の多くを置いて引き揚げた。その責任を問われ、1553年ごろ、80を超える高齢でカイロで処刑された。今日、彼の名はトルコの海軍艦艇や調査船につけられ、1513年の地図はトプカプ宮殿の図書館に収められている。