マンサ・ムーサ
概要
西アフリカの金を握った王。巡礼の道中で配った金が相場を崩したと伝わる。
所属
マリ帝国関わったできごと(1)
マンサ・ムーサの巡礼AD1324年 · 当人本文
西アフリカのマリ帝国の王。マンサは王を意味する称号で、名はムーサ(モーセのアラビア語形)である。帝国を開いたスンジャタ・ケイタの兄弟の系統に連なるとされるが、生年は分からず、即位の年も1307年とも1312年とも言われる。

即位のいきさつについて、ムーサ自身が後にカイロで語った話が残っている。前の王は大西洋の果てを知ろうとして、まず200艘の船を送り出した。戻ってきたのは1艘だけで、海の中に大きな川のような流れがあり、ほかの船はそこへ消えたと報告した。王は自ら2000艘を率いて海へ出て、二度と戻らなかった。そこで留守を預かっていたムーサが王になった、というのである。この話はエジプトの学者ウマリーが書き留めたもので、どこまで本当かは分からない。
マリの富の源は金だった。帝国の南西、セネガル川とニジェール川の上流の土地では、川の砂や地中から多くの金が採れた。金はサハラを越える隊商によって北アフリカへ運ばれ、地中海の国々の通貨にもなった。逆に北からは、サハラで切り出した岩塩が運ばれてきた(ガーナ王国の金と塩の交易)。マリの王は、その交易の通り道を押さえることで富を築いた。
1324年、ムスリムとしての務めであるメッカへの巡礼に出た(マンサ・ムーサの巡礼)。隊列の大きさは史料ごとに違い、数千から数万人とされる。ある記録では、数百頭のラクダがそれぞれ大量の金を背負い、金の杖を持った奴隷が先を歩いたという。数字はどれも伝聞で、割り引いて読む必要がある。

7月頃にカイロに着き、数か月とどまった。マムルーク朝のスルタンに会う際、作法どおり地にひれ伏すよう求められて最初は拒み、「神にひれ伏すのだ」と言い換えてようやく応じたと伝えられる。滞在中、王とその一行は、役人にも商人にも気前よく金を配り、市場で惜しみなく買い物をした。
その結果、カイロでは金の値打ちが下がった。12年ほど後にこの町で書いたウマリーは、金の値はそのときから下がったままで、まだ元に戻っていないと記している。ただし、それがどれほどの規模の下落だったのかは分からない。帰り道では金を使い果たし、カイロの商人から高い利息で借金をしたという話も伝わっている。

巡礼から戻ると、王国の中心の一つトンブクトゥに大きなモスクを建てさせた。アンダルス出身の詩人で建築家のサーヒリーを連れ帰り、設計を任せたとされる。いまも残るジンガレイベル・モスクは、その流れをくむものと伝えられるが、その後何度も建て直されている。トンブクトゥはやがて、北アフリカやエジプトから学者が集まる学問の町として知られるようになる。
ムーサの治世に、マリはニジェール川中流の交易都市ガオも支配下に入れ、版図はもっとも広くなった。大西洋岸からいまのニジェールのあたりまで、東西2000キロ近い地域に及んだとされる。

この巡礼によって、マリの名はイスラーム世界だけでなくヨーロッパにまで届いた。1375年頃、マヨルカ島で作られた「カタルーニャ図」と呼ばれる世界図には、西アフリカの真ん中に、王冠をかぶり金の塊を掲げた王の姿が描かれ、マリの王ムーサだと書き添えられている。
亡くなったのは1337年頃とされるが、1332年とする説もある。跡は息子が継ぎ、のちに弟のスライマーンが王になった。1352年から翌年にかけてマリを訪れたモロッコの旅行家イブン・バットゥータは、このスライマーンの宮廷のありさまを書き残している。

「史上もっとも裕福な人物」と呼ばれることがある。だが、中世の王の富を現代の通貨に換算する計算には無理があり、数字は当てにならない。しかも、金の産地そのものは、王も直接には押さえていなかったとされる。金を掘る人々は、自分たちが改宗させられたり支配されたりすれば金を出さなくなるといい、王はそれを無理に従わせなかった、とウマリーは書いている。王の富は、金そのものより、金が動く道を押さえたところから生まれていた。