コソヴォの戦い

概要
セルビアのラザル公とオスマンのムラト1世が、両方とも死んだ。ムラトは天幕でセルビアの騎士に刺され、ラザルは捕えられて斬られた。セルビアは属国になり、この日を600年語り続ける。
場所
42.64°N 21.10°E · コソボ
関わった人(1)
バヤズィト1世(雷帝)AD1360年–AD1403年3月8日 · その場で即位本文
14世紀の半ば、セルビアはバルカン半島で最も強い国だった。ステファン・ドゥシャンは1346年に皇帝を名乗り、ギリシアの北半分まで支配した。ところが1355年にドゥシャンが死ぬと、帝国は地方の有力者たちの領地に分かれていく。そこへ、小アジアから海峡を渡ってきたオスマン帝国が入り込んだ。1371年、マリツァ川の戦いでオスマン軍はセルビア南部の領主たちを破り、マケドニアの諸侯は貢納する属国になった。1386年にはスルタン、ムラト1世の軍がニシュを奪っている。
北に残ったセルビアの領主の中で、いちばん大きな勢力を持っていたのがラザル・フレベリャノヴィチ公である。ラザルはオスマンと戦う覚悟を決め、娘婿のヴク・ブランコヴィチ、ボスニア王トヴルトコ1世が送った将ヴラトコ・ヴコヴィチの軍と手を組んだ。兵の数は、セルビア側が1万2000から3万、オスマン側が2万7000から4万などと推定は大きく割れ、確かなことは言えない。ムラトのもとには、息子のバヤズィト(バヤズィト1世(雷帝))とヤクブがいた。

1389年6月15日、聖ヴィトゥスの祝日(セルビア語でヴィドヴダン)に、両軍はコソヴォ・ポリェで向き合った。「黒ツグミの野」という意味の、いまのプリシュティナの北西に広がる平原である。戦いの経過を詳しく書いた同時代の記録は無い。分かっているのは、その日のうちにムラト1世もラザルも死んだことである。
ムラトの死は、のちに名高い伝説になった。セルビアの騎士ミロシュ・オビリッチが寝返ったふりをしてオスマンの陣に入り、スルタンの足に口づけする振りをして、隠し持った短刀で刺したという。戦いの直後にフィレンツェが送った手紙には、12人のセルビアの貴族が敵陣を突き破り、その一人がスルタンを刺したと書かれ、オスマン側の年代記にも、投降を装った者が近づいて刺したとある。だが刺した男の名がミロシュとして現れるのはもっと後の記録で、細部は伝説として受け取るほかない。ムラトが戦場で、あるいは戦いのさなかに殺されたこと自体は確かである。

バヤズィトはすぐに動いた。弟ヤクブを天幕に呼び出して絞め殺させ、その場でスルタンに即位した。王位争いの芽をその日のうちに摘んだのである。オスマンではこれ以後、即位した君主が兄弟を殺す慣わしが根を下ろしていく。ラザルは捕えられ、首を斬られた。
どちらが勝ったのかは、はっきりしない。両方の君主が死に、両軍とも大きな損害を出した。ボスニア王トヴルトコは勝ったと西欧に知らせ、フィレンツェは彼に祝いの手紙を送っている。オスマン軍もいったん小アジアへ引き上げた。しかし兵と領主を失った打撃は、小さなセルビアのほうがはるかに大きかった。ラザルの未亡人ミリツァは間もなくオスマンに従うことを受け入れ、息子のステファン・ラザレヴィチは貢納と出兵の義務を負う属国の君主となり、妹オリヴェラはバヤズィトのハレムに送られた。ステファンはスルタンの軍勢として、1396年のニコポリスの戦いで十字軍と戦い、1402年のアンカラの戦いでもバヤズィトの側で戦った。セルビアが最後に独立を失うのは1459年、首都スメデレヴォの陥落のときである。

負けた戦いは、セルビア人の記憶の中心になった。ラザルは聖人とされ、遺骸は彼の建てたラヴァニツァ修道院に祀られた。やがて叙事詩が語り継がれる。戦いの前夜、ラザルのもとに灰色の鷹がエルサレムから神の手紙を運んできて、地上の王国と天の王国のどちらを選ぶかと問うた。ラザルは天の王国を選び、だから戦いに敗れて殉じた、という筋である。ヴク・ブランコヴィチは戦場から兵を引いた裏切り者として歌われ、コソヴォの娘が戦場で傷ついた勇士を探して歩く歌もある。ヴクの裏切りに史料の裏付けは無く、彼はその後もしばらくオスマンに抵抗を続けた。こうした歌は19世紀にヴーク・カラジッチが書き取って広く知られ、オスマンの支配からの独立を求める人々の旗印になった。
日付にも注意がいる。6月15日はユリウス暦で、セルビア正教会がいまも使う暦である。20世紀以降、ヴィドヴダンはグレゴリオ暦の6月28日に当たる。1914年6月28日、サラエヴォでガヴリロ・プリンツィプがオーストリアの皇位継承者を撃ったのは、この記念日だった。一か月後に第一次世界大戦が始まる。

1989年6月28日、600年の記念日に、セルビアの指導者スロボダン・ミロシェヴィッチは、戦場跡のガジメスタンで数十万とも百万とも言われる群衆に演説し、六世紀を経て我々はふたたび戦いに直面していると語った。ユーゴスラヴィアが血を流して解体していく直前のことである。コソヴォは住民の多くがアルバニア人となった土地で、1999年の紛争を経て、2008年に独立を宣言した。セルビアはこれを認めていない。