アリー
概要
ムハンマドの従弟で娘婿。最初に信じた男の一人で、第四代カリフになった。ムアーウィヤと戦い、仲裁を受け入れたことで一派が離れ、その一派に礼拝中に斬られた。シーア派は彼こそ正しい後継者だとし、ナジャフの墓に詣でる。
所属
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)関わったできごと(2)
スィッフィーンの戦いAD657年7月 · 仲裁を受けたウマイヤ朝の成立AD661年 · 暗殺された本文
600年ごろ、メッカで生まれた。父アブー・ターリブはクライシュ族ハーシム家の長で、幼くして両親を失った甥のムハンマドを引き取って育てた人である。アリーがカアバ神殿の中で生まれたという言い伝えを、シーア派は大切にしている。5歳ほどのとき、飢饉で叔父の暮らしが苦しくなったため、今度はムハンマドがアリーを引き取った。こうしてアリーは、従兄の家で、その子のように育った。

ムハンマドが神の啓示を受けたと語り始めたとき、最初に信じたのは妻ハディージャで、男性ではアリーが最初の一人だったとされる。まだ10歳前後の少年だった。年長の男性で最初に信じたのはアブー・バクルだとする伝承もあり、どちらを最初とするかは、のちの宗派の立場とも絡んでいる。
622年、メッカの有力者たちがムハンマドの暗殺をたくらんだ夜、アリーはムハンマドの寝床に身代わりで横たわり、その間にムハンマドはメディナへ脱出した(ヒジュラ(聖遷))。アリーも後を追い、メディナでムハンマドの娘ファーティマと結婚した。二人のあいだに生まれたハサンとフサイン・イブン・アリーが、ムハンマドの血を後に伝えることになる。アリーは勇猛な戦士として、バドル、ウフド(ウフドの戦い)、塹壕、ハイバルの戦いに加わった。ウフドの戦いで天から、アリーに勝る若者なく、ズルフィカールに勝る剣なし、という声が聞こえたという伝承がある。ズルフィカールは二股の刃を持つとされる彼の剣の名である。

632年、ムハンマドが亡くなった。アリーたち家族が遺体を清め葬儀の支度をしているあいだに、メディナの有力者たちは集会を開き、アブー・バクルを後継者(カリフ)に選んだ。アリーは半年ほど忠誠を誓わなかった。ファーティマが亡くなった後に、ようやく誓ったとされる。シーア派は、その年の春、巡礼の帰りに立ち寄ったガディール・フンムの池で、ムハンマドが「私を主と仰ぐ者は、アリーを主と仰ぐ」と述べ、アリーを後継者に指名したと考える。スンナ派もこの言葉そのものは伝えるが、後継の指名ではなく、アリーへの敬愛を求めた言葉だと解する。この解釈の違いが、イスラムの二つの大きな流れの分かれ目になった。
それから24年、アブー・バクル、ウマル、ウスマーンの3代のカリフのもとで、アリーは政治の中心から外れていた。それでも法と信仰についての深い知識で敬われ、ウマルは難しい裁きのたびに彼に相談した。アリーがいなければウマルは滅んでいた、とウマルが言ったという伝承が残る。

656年、第3代カリフのウスマーンが、その一族びいきに怒った反乱者たちにメディナの自宅で殺された。混乱の中でアリーがカリフに推されたが、ウスマーンの殺害者を罰しないアリーに対して、反発がすぐに起きた。その年の暮れ、ムハンマドの妻アーイシャと、教友のタルハ、ズバイルがイラクのバスラで兵を挙げた。アーイシャがラクダの上の輿から兵を励ましたことから「ラクダの戦い」と呼ばれる。ムスリムどうしが刃を交えた最初の大きな戦いで、アリーが勝ち、アーイシャを丁重にメディナへ送り返した。アリーは都をイラクのクーファに移した。
ウスマーンと同じウマイヤ家の出で、シリア総督のムアーウィヤは、アリーをカリフと認めず、ウスマーンの血の報いを求めた。657年、ユーフラテス川のほとりのスィッフィーンで両軍がぶつかった(スィッフィーンの戦い)。アリーの軍が優勢になったとき、シリア軍はクルアーンの紙葉を槍の先に掲げ、神の書に裁きを委ねようと呼びかけた。アリーは仲裁を受け入れたが、これに怒った一部の兵が、裁きは神のみに属するとして彼のもとを去った。のちにハワーリジュ派と呼ばれる人々である。658年、アリーはナフラワーンで彼らを討ち、多くを殺した。仲裁の結果もアリーに不利なものとなり、ムアーウィヤは自らカリフを名乗った。

661年1月、ラマダーン月の夜明けの礼拝のため、クーファのモスクに入ったアリーを、ハワーリジュ派のイブン・ムルジャムが毒を塗った剣で斬りつけた。頭を割られたアリーは、カアバの主にかけて、私は勝利した、と言ったと伝えられる。2日後に亡くなった。墓は敵に暴かれるのを恐れて秘密にされ、のちにクーファに近いナジャフの地がその墓所とされた。いまナジャフの金色のドームの廟には、世界中のシーア派の巡礼者が訪れる。
アリーの死によって、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝(ウマイヤ朝の成立)の時代が始まった。長男ハサンはムアーウィヤに位を譲り、次男フサインは680年、カルバラーでウマイヤ朝の軍に殺された(カルバラーの悲劇)。アリーとその子孫こそが共同体を導くべきだと考えた人々は「アリーの党派(シーア・アリー)」と呼ばれ、それが「シーア派」の名の由来となった。シーア派にとってアリーは最初のイマームであり、スンナ派にとっては4人目の正統なカリフである。

10世紀の終わりに、彼のものとされる説教や手紙、格言を集めた『雄弁の道(ナフジュ・アル・バラーガ)』が編まれた。どこまでが本人の言葉かは議論があるが、エジプト総督に宛てたとされる手紙の、人は二種類だ、宗教の上での兄弟か、創造において同じ人間か、という一節は、統治者の心得としていまも引かれる。神秘主義のスーフィーの多くの教団も、教えの系譜をアリーにさかのぼらせている。宗派の違いを越えて、預言者に次ぐ知恵と勇気と清廉の人として、彼は敬われ続けてきた。