できごと

タラーインの戦い

Second Battle of Tarain
AD1192年
重要度 4
タラーインの戦いに関わる図版:The last stand of Rajputs against Muhammadans
The last stand of Rajputs against Muhammadans Wikimedia Commons Allan Stewart · Public domain

概要

ゴール朝のムハンマドが、前年に負けた相手のラージプート王を、同じ場所で破った。デリーの門が開き、北インドに以後600年、イスラームの王朝が続く。

場所

タラーイン(タラオリ)位置は特定されていない(誤差 ±km)
29.78°N 76.98°E · インド・ハリヤーナー州

関わった人(2)

ムハンマド・ゴーリーAD1149年–AD1206年 · 勝者プリトヴィーラージ3世AD1166年頃–AD1192年 · 敗者

本文

ゴール朝は、アフガニスタン中部の山あいのゴール地方から興った王朝である。12世紀の半ば、兄ギヤースッディーンと弟ムハンマドの兄弟のもとで力を伸ばし、かつて北インドへ略奪の遠征をくり返したガズナ朝(マフムード・ガズナウィー)を追いつめた。兄が西のイラン方面を受け持ち、弟のムハンマド・ゴーリーが東のインド方面を受け持った。1186年、ムハンマドはパンジャーブのラホールを落としてガズナ朝を滅ぼし、北インドの平原へ出る門口に立った。

その前に立ちはだかったのが、ラージプートの諸王である。ラージプートは北インドの戦士の家系で、多くの王家に分かれ、互いに争いながら各地を治めていた。そのなかで最も力のあった一人が、デリーとアジメールを治めるチャウハーン家のプリトヴィーラージ3世だった。

ムハンマド・ゴーリー(シハーブッディーン)の肖像
ムハンマド・ゴーリーWikimedia Commons Maulvi Abdurab Ahadi · Public domain

1191年、両軍はデリーの北およそ150キロ、タラーインの野でぶつかった。ラージプート軍は、両翼からゴール軍を押し包んだ。ムハンマドは、自らデリーの領主であるプリトヴィーラージの一族の将と渡り合い、腕に槍を受けて傷ついた。落馬しかけたところを若い兵が抱えて馬に乗せ、戦場から連れ出したと伝えられる。ゴール軍は敗れて退いた。ラージプート軍は深く追わず、そのあとの1年を、ゴール軍が残した城を囲むことに費やした。

ムハンマドは、この敗北を深く恥じたとされる。翌1192年、彼は大軍を率いて、同じタラーインの野に戻ってきた。のちのペルシア語の歴史書は、その数を12万騎と伝える。ラージプート側はさらに多い軍を集めたとされるが、どちらの数も誇張されているとみられる。

プリトヴィーラージ3世の没後の肖像画(コーター派)
プリトヴィーラージ3世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ムハンマドは戦い方を変えた。軍を五つに分け、そのうち四つの隊の軽装の弓騎兵に、敵の側面と背後から襲わせた。矢を浴びせては退き、敵が追ってくれば散り、また戻ってくる。ラージプートの戦象と重い騎兵は、この相手を捕まえられなかった。朝から続いた戦いで敵が疲れきったところへ、ムハンマドは控えていた精鋭の本隊を投入し、ラージプート軍の隊列を崩した。プリトヴィーラージは戦場を逃れようとして捕らえられ、まもなく殺された。

翌1193年、デリーが落ちた。ムハンマドは、奴隷の身分から将軍に取り立てたトルコ系のクトゥブッディーン・アイバクに、インドの征服地を任せた。アイバクはデリーに大きなモスクを建てた。入口の碑文によれば、その石材には、27のヒンドゥー教とジャイナ教の寺院を壊したものが使われた。そのそばに建てはじめた高い塔が、のちのクトゥブ・ミナールになる。ゴール朝の軍は、その後10年ほどのうちにガンジス川の流域からベンガルまで進んだ。

1206年、ムハンマドはパンジャーブで暗殺された。跡継ぎの男子はいなかった。アイバクはデリーで自らスルタンを名乗り、デリー・スルタン朝が始まる(デリー・スルタン朝の成立)。奴隷出身の支配者が続いたことから、最初の王朝は「奴隷王朝」とも呼ばれる。

プリトヴィーラージの最期については、のちに伝説がふくらんだ。後世のヒンディー語の叙事詩では、彼はゴールへ連れていかれて目をつぶされ、それでも声だけを頼りにムハンマドを矢で射殺した英雄として描かれる。恋人の姫を連れて駆け落ちする話もよく知られる。いずれも史実ではないが、インドではいまも、外からの侵入者に立ち向かった最後のヒンドゥーの王として語られることが多い。

この戦いのあと、北インドでは、デリー・スルタン朝の諸王朝からムガル帝国(ムガル帝国の成立)まで、イスラーム教徒の王朝が600年あまり続いた。インドの歴史では、ヒンドゥーの王たちの時代と、イスラームの王朝の時代の境を、この戦いに引くことが多い。ただし、それによってヒンドゥーとイスラームの二つの世界が単純に分かれたわけではない。両者は数百年のあいだに、建築や言葉や音楽、宮廷の文化で深く混じり合っていった。

同じ時代のできごと

ナンマドールの造営AD12世紀頃から17世紀までヨーロッパの風車AD1180年頃法然の専修念仏AD1175年レニャーノの戦いAD1176年5月29日鹿ケ谷の陰謀AD1177年(安元3年)朱熹の白鹿洞書院AD1179年イブン・ルシュドのアリストテレス注釈AD1180年頃福原遷都AD1180年(治承4年)6月
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