人物

セリム1世

Selim I
AD1470年10月10日 – AD1520年9月22日(享年49)
オスマン帝国重要度 5

概要

バヤズィト2世の末の息子。イェニチェリの支持で父を退位させ(父は1か月で死んだ)、兄弟と甥を全部殺した。「冷酷者」。1514年、チャルディラーンでイスマーイール1世を破った。シーア派を4万人殺した、と言う。1516〜17年、シリアとエジプト。ムスリムの聖地の守護者。8年。ペストで死んだ。息子スレイマン。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(2)

チャルディラーンの戦いAD1514年 · 勝ったセリム1世のエジプト征服AD1517年1月22日 · 征服した

本文

1470年10月10日、アナトリア北部の町アマスィヤで、当時その地の知事だった皇子バヤズィト(のちのバヤズィト2世)の息子として生まれた。母はギュルバハルという女性で、その出自には諸説ある。オスマン家には決まった後継の順位がなく、皇子たちは地方の知事として腕を競い、父が死ねば兄弟の誰かが位を取り、残りは殺されるのが習いだった。セリムは3番目か4番目の息子で、位に最も遠い一人だった。

セリム1世の肖像
セリム1世の肖像Wikimedia Commons Bilinmiyor · Public domain

1487年ごろから、黒海東岸のトラブゾンの知事を20年以上務めた。都から遠い国境の町である。彼は東のグルジアの諸侯と戦いを重ね、そのあいだに、さらに東のイランで起きている変化を間近に見た。1501年、若い宗教指導者イスマーイールがタブリーズで王を名乗り、サファヴィー朝を開いた。シーア派の教えを掲げる彼のもとには、赤い帽子をかぶったトルコ系の遊牧民、「クズルバシュ(赤い頭)」が集まった。その多くはアナトリアの住民で、オスマンの臣下だった。1511年、アナトリアでクズルバシュの大反乱が起き、鎮圧に向かった大宰相まで戦死した。年老いた父バヤズィト2世は、イスマーイールとの正面からの対決を避け続けていた。

セリムは、父が後継に兄のアフメトを望んでいることを知っていた。1511年、彼は許しを得ずに任地を離れて黒海を渡り、妻の父にあたるクリミアのハンのもとへ身を寄せ、息子スレイマンをクリミアの港町カッファの知事に据えさせた。そこからバルカンへ兵を進めて父の軍と戦ったが、チョルルの近くで敗れ、クリミアへ逃げ戻った。それでも都の常備歩兵イェニチェリは、優柔不断とされた兄よりも、戦いを恐れないセリムを支持した。1512年4月、イェニチェリの圧力に屈したバヤズィト2世は退位し、セリムが位に就いた。父は隠居先へ向かう途中、5月26日に亡くなった。毒を盛られたとの噂が立った。

細密画家ナッカシュによるセリム1世の肖像
細密画家ナッカシュによるセリム1世の肖像Wikimedia Commons Naḳḳāş ʿOs̠mān · Public domain

即位したセリムは、兄アフメトとコルクトを捕らえて処刑し、甥たちも殺した。「ヤヴズ」というあだ名は、日本語では「冷酷者」と訳されることが多いが、トルコ語では「厳しい」「猛々しい」に近い言葉である。

1514年、彼はイスマーイールとの戦いに乗り出した。遠征の前にアナトリアでクズルバシュの信徒を4万人殺させたとオスマンの年代記は伝えるが、数は誇張と見る研究者が多い。両者は互いを侮辱する手紙をやり取りし、オスマン軍は夏の荒野を延々と東へ進んだ。8月23日、ヴァン湖の北東のチャルディラーンで両軍が激突した(チャルディラーンの戦い)。サファヴィー朝の騎兵は勇猛に突撃したが、オスマン軍は車をつないだ陣の後ろに大砲と鉄砲を並べて迎え撃ち、勝敗は決した。無敵を信じられていたイスマーイールは傷を負って逃れ、その妻の一人がオスマン軍に捕らえられた。セリムはサファヴィー朝の都タブリーズに入ったが、冬の遠征を嫌うイェニチェリに迫られて、間もなく引き揚げた。それでもこの戦いで東アナトリアとクルディスタンの大部分がオスマンの手に入り、両国の境は、おおよそ今日のトルコとイランの国境の近くに落ち着いた。

次に彼が向かったのは南だった。エジプトとシリアを治め、メッカとメディナの聖地を守っていたマムルーク朝は、サファヴィー朝と通じているとみなされた。1516年8月、シリア北部のマルジュ・ダービクで、オスマン軍はまたも大砲と鉄砲の力でマムルーク騎兵を破り、老スルタンのガウリーは戦場で死んだ。セリムはシナイ半島の砂漠を越えてエジプトに入り、1517年1月、カイロ郊外のリダーニーヤで最後のスルタンのトゥーマーンバーイの軍を破った(セリム1世のエジプト征服)。トゥーマーンバーイはカイロの城門に吊るされ、2世紀半続いたマムルーク朝は滅んだ。メッカの太守は聖地の鍵をセリムに送り、彼は「二つの聖地の奉仕者」を名乗った。最後のアッバース家のカリフをイスタンブールへ連れ去り、カリフの位を譲り受けたという話は、18世紀ごろに広まった後世の主張で、当時の記録には見えない。

セリム1世のエジプト征服に関わる図版:The Ottoman-Mamluk war and the conquest of Mecca and Medina. Printed in Basel, dated 1518
セリム1世のエジプト征服Wikimedia Commons Asherbooks.com · Public domain

在位わずか8年のあいだに、オスマン帝国はアラブ世界の中心部とイスラムの聖地を手に入れ、スンナ派のイスラム世界を代表する国になった。エジプトから届く税と穀物は、以後の帝国の財政を支えた。イスタンブールに戻った彼は、宰相たちをたびたび処刑し、「セリムの宰相になれ」という言葉が、相手の死を願う呪いの文句になったと伝えられる。一方で、彼はペルシア語の詩を愛し、自らも「セリーミー」の名でペルシア語の詩を残した。戦場で倒した宿敵の国の言葉で詩を書くことは、当時のオスマンの教養人にとって珍しいことではなかった。

1520年、彼は次の遠征の準備を進めていたが、その途中、かつて父の軍に敗れたチョルルの近くで病に倒れ、9月22日に亡くなった。背中にできた悪性の腫れ物のためとも、ペストのためともいわれる。50歳になる直前だった。遺体はイスタンブールに運ばれ、息子が建てたヤヴズ・セリム・モスクに葬られた。

マムルーク朝スルタン、カーンスー・ガウリーの首がセリム1世に届けられる場面を描いたオスマンの絵
マムルーク朝スルタン、カーンスー・ガウリーの首がセリム1世に届けられる場面を描いたオスマンの絵Wikimedia Commons Seyyid Lokman (Died in 1601) · Public domain

彼は成人した息子をただ一人しか残さなかった。そのため、跡を継いだスレイマン1世は兄弟と位を争う必要がなかった。父が力ずくで広げた帝国を、スレイマンは46年の治世で法と制度で固め、オスマン帝国の最盛期を築いていく。その舞台を用意したのが、短く激しいセリムの8年だった。

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