概要
バヤズィト2世の末の息子。イェニチェリの支持で父を退位させ(父は1か月で死んだ)、兄弟と甥を全部殺した。「冷酷者」。1514年、チャルディラーンでイスマーイール1世を破った。シーア派を4万人殺した、と言う。1516〜17年、シリアとエジプト。ムスリムの聖地の守護者。8年。ペストで死んだ。息子スレイマン。
所属
オスマン帝国関わったできごと(2)
チャルディラーンの戦いAD1514年 · 勝ったセリム1世のエジプト征服AD1517年1月22日 · 征服した本文
1470年、アマスィヤ。バヤズィト2世の3番目か4番目の息子。母はギュルバハル(アイシェ)。トラブゾンの知事(1487年頃から)。黒海の東。グルジアと戦い、東からサファヴィー朝のイスマーイール1世(1501年から)が東アナトリアのトルコ系遊牧民(クズルバシュ)を引きつけるのを見ていた。父は動かなかった。
1511年、セリムは許可なくトラブゾンを出て、クリミアのハン(義父)の所へ行き、息子スレイマンをカッファに。ルメリア(バルカン)へ渡って、父と戦って負けた(1511年8月、チョルル)。兄アフメトが後継者に決まった。イェニチェリがアフメトを嫌った(改革派とされ、また、優柔不断とされた)。1512年4月24日、イェニチェリの圧力で、バヤズィトは退位した。セリムに。バヤズィトはディメトカへ向かう途中、5月26日、死んだ(毒殺と言われる)。兄アフメトとコルクトを絞殺し、甥5人を殺した。「冷酷者(ヤヴズ)」。
1514年3月、東へ。イスマーイールへの手紙は侮辱の応酬。8月23日、チャルディラーン(ヴァン湖の北東)。大砲500門、鉄砲1万2000。サファヴィーの騎兵は大砲の前に突撃した。イスマーイールは負傷して逃げ、妻がセリムに捕らえられた。タブリーズに9月に入って、2週間で去った(イェニチェリが冬を嫌った)。東アナトリアとクルディスタンがオスマンに(1516年、ディヤルバクル)。クズルバシュを4万人殺した、と伝える(誇張だろう)。
1516年、マルジュ・ダービク。1517年、リダーニーヤ。カイロ。
1517〜20年、イスタンブールでは、大宰相を次々に処刑した。「セリムの大宰相になれ」が「死ね」の意味の呪いになった。ハーフィズ(ペルシア語の詩人)を愛し、自分もペルシア語で詩を書いた(ペンネーム「セリーミー」)。
1520年9月、エディルネへ向かう途中、チョルル(父を破った場所の近く)で、癰(背中の腫れ物。「シルペンチェ」)で死んだ。50歳。8年。イスタンブールのヤヴズ・セリム・モスク。
息子は一人だけ残した。スレイマン。兄弟殺しの必要がなかった。