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Person / 人

アフマド・ウラービー

Ahmed Urabi
AD1841年3月31日 – AD1911年9月21日(享年70)
エジプト重要度 4

概要

ナイル・デルタの村長の子。農民出身で、トルコ・チェルケス系の将校が支配する軍で、初めて大佐になった一人。1881年、宮殿の前に兵を並べて、憲法と議会と、エジプト人の昇進を求めた。「我々は神が創造し、自由に生まれた。奴隷でも財産でもない」。1882年、敗れて、セイロンへ19年。1901年、帰国を許された。エジプト民族主義の出発点。

関わったできごと(1)

ウラービー運動AD1882年9月13日 · 率いた

本文

1841年3月31日、シャルキーヤ県のヒルヤト・ラズナ村。村長(ウムダ)の子。フェッラーヒーン(農民)の家系。アズハルで2年学び、1854年、13歳で軍に入った(サイード副王が、エジプト人の農民の子を士官にする方針を採った短い期間)。

昇進した。20歳で大尉、1863年、22歳で大佐。副王サイードに気に入られた。しかしサイードが死んで、イスマーイールの時代になると、トルコ・チェルケス系の将校が再び上を占め、エジプト人の昇進が止まった。ウラービーは17年、大佐のままだった。

1875年、エチオピア遠征に参加(惨敗)。1876年、エジプトの財政が破綻。1879年、イスマーイールが列強によって退位させられ、息子タウフィークが副王に。財政の緊縮で、軍の将校2500人が解職された。エジプト人が優先的に切られた。

1881年2月1日、エジプト人将校3人(ウラービーを含む)が、陸相オスマン・リファトの解任を求める請願を出した。彼らは会議に呼ばれて逮捕された。同じ日、彼らの連隊が兵舎から出て、会議の建物を襲い、3人を奪還した。副王は折れて、陸相を交代させた。

1881年9月9日、アービディーン宮殿。ウラービーは2500の兵と大砲を宮殿の前に並べた。副王タウフィークが、イギリス総領事とフランス総領事を伴って出てきた。

タウフィーク「私はこの国の主である。私の父から相続した」。 ウラービー「我々は神が創造し、自由に生まれた。今後、相続されることも、所有されることもない」(と伝えられる。記録は複数あり、言葉は少しずつ違う)。

要求。内閣の交代。議会(代議士会)の召集。軍の定員を1万8000に戻すこと。副王は全部を受け入れた。

1882年2月、ウラービーは陸相になった。議会が開かれ、予算の審議権を求め、憲法草案が作られた。「エジプト人のエジプトを」。ムスリムだけでなく、コプトとユダヤ人とギリシア人の商人にも、支持者がいた。

英仏は警戒した。債務の管理が崩れる。運河の安全。5月20日、英仏の艦隊がアレクサンドリア沖に来た。6月11日、アレクサンドリアで暴動。誰が始めたかは分からない(外国人50〜100人、エジプト人数百人が死んだ)。7月11日、イギリス艦隊が10時間半、市を砲撃した。フランス議会は参加を拒否し、艦隊は去った。

8月、イギリス軍2万5000が、スエズ運河から上陸した。運河会社のレセップスは「運河は中立で、軍の通過を認めない」と言い、ウラービーは運河を破壊しなかった(レセップスの言葉を信じた)。イギリス軍は運河を通って背後に回った。

9月13日、午前1時、テル・エル・ケビール。ウラービーの塹壕。イギリス軍は、月のない夜、砲を曳かず、無音で、9キロを歩いて、夜明けに突撃した。40分で塹壕が抜かれた。エジプト軍の死者2000。

ウラービーは捕らえられ、反逆罪。イギリスの弁護士(ウィルフリッド・スコーウェン・ブラント、詩人で反帝国主義者、が費用を出した)がついた。死刑判決の後、即座に減刑。セイロンのコロンボへ流刑。

19年。彼はセイロンで、農業をし、イスラームの学校を作った。1901年、恩赦で帰国。政治には戻れなかった。1911年9月21日、カイロで死んだ。70歳。

エジプトの歴史の中で、彼の評価は揺れた。「無謀な軍人が、イギリスの占領を招いた」から、「最初の民族運動の指導者」へ。1952年の革命の後、ナセルが彼を先駆者として位置づけた。