コンスタンティノープル陥落

概要
オスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
メフメト2世AD1432年3月30日–AD1481年5月3日 · 攻める側本文
1453年5月29日の夜明け前、オスマン帝国の軍がコンスタンティノープルの城壁を越えた。330年にコンスタンティヌス帝がこの町をローマ帝国の新しい都と定めてから(コンスタンティノープル遷都)、1100年あまり。ローマ帝国の東半分の流れをくむ東ローマ(ビザンツ)帝国は、この日に事実上終わった。
最後の数十年、帝国はもはや帝国と呼べる姿ではなかった。1204年、第4回十字軍に都を奪われ、略奪された傷は深かった(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。1261年に都を取り戻したものの、かつての力は戻らなかった。14世紀、小アジアから起こったオスマン帝国(オスマン帝国の始まり)はバルカン半島に渡り、都をヨーロッパ側のエディルネに移した。コンスタンティノープルは、オスマンの領土の中に浮かぶ島のような町になり、周辺のわずかな土地と、ギリシア南部のいくつかの拠点を残すだけになった。
一度は救いの手が思わぬところから来た。1402年、オスマンのスルタンバヤズィト1世(雷帝)は都を包囲していたが、東から攻め込んできたティムールとアンカラで戦って大敗し、捕らえられた(アンカラの戦い)。オスマンは一時、後継争いで分裂し、ビザンツは半世紀の猶予を得た。皇帝たちは西ヨーロッパに援軍を求め、1439年にはローマ教会との合同まで受け入れた。だが、都の民衆と聖職者の多くはこれに強く反発し、西からの大きな援軍も来なかった。

1451年、19歳のメフメト2世がスルタンの位を継いだ。若いスルタンは、この町を落とすことを最大の目標に掲げた。翌1452年、彼は都の北、ボスポラス海峡の最も狭いところのヨーロッパ側に、わずか4か月あまりで要塞を築き上げた。対岸にあった先代の要塞と合わせて、黒海から都へ向かう船を砲撃で止められるようになった。
決め手の一つは大砲だった。ウルバンという技師が、巨大な青銅の大砲を作る腕を売り込みに来た。ハンガリー出身とされるが、出自ははっきりしない。彼は最初にビザンツの皇帝に仕えようとしたが、皇帝には彼に十分な報酬を払い、材料を揃える金がなかった。そこでメフメトのもとへ行き、厚遇されたという。完成した巨砲は長さ8メートル前後、数百キロの石の弾を撃ち出したと伝えられる。扱いが難しく、一日に数発しか撃てなかったが、その一発ごとに城壁が揺らいだ。
コンスタンティノープルは、陸の側を三重の城壁で守られていた。5世紀に築かれて以来、アヴァール人も、ペルシア人も、アラブ人も、この壁を破れなかった(コンスタンティノープル包囲とギリシア火)。海の側は城壁と潮の流れに守られ、北の入り江の金角湾は、入口に太い鎖を張り渡して敵の船を締め出していた。

1453年4月の初め、オスマン軍は都を囲んだ。兵の数は史料によって大きく違うが、少なくとも数万、多く見積もる記録では十数万とされる。対する守備の兵は、皇帝コンスタンティノス11世のもとに7千人ほど。その中には、ジェノヴァの軍人ジュスティニアーニが率いる数百人の兵や、ヴェネツィア人も含まれていた。
大砲は毎日城壁を撃ち、崩れた場所を、守る側は夜のうちに土や木材で塞いだ。オスマン軍は地下にトンネルを掘ったが、守備側も対抗のトンネルを掘ってこれを潰した。海でも、鎖を破ることができなかった。そこでメフメトは、もう一つの手を打った。4月22日、金角湾の対岸のガラタの町の裏の丘に、油を塗った丸太を敷いて道を作り、70隻ほどの船をボスポラス海峡の側から陸の上を引いて越えさせ、金角湾の中に下ろしたのである。湾の側の城壁も守らなければならなくなった守備側は、ただでさえ少ない兵をさらに薄く広げることになった。

5月29日の未明、総攻撃が始まった。オスマン軍は波状に兵を送り込み、最後に精鋭の常備歩兵イェニチェリが突入した。陸の城壁の要の部分を守っていたジュスティニアーニが重傷を負って船に運ばれると、守備の陣形は崩れた。城壁の小さな門が閉め忘れられていて、そこからオスマン兵が入り込んだという話も伝わるが、確かではない。皇帝コンスタンティノス11世は、最後の戦いの中で行方が分からなくなった。皇帝の衣を脱ぎ捨てて兵とともに斬り込んだとも伝えられるが、遺体は確かめられず、その最期は伝説に包まれた。
町はオスマン兵の略奪にさらされ、多くの住民が殺されるか、捕らえられて売られた。メフメトはその日のうちに町に入り、6世紀に建てられた大聖堂ハギア・ソフィアの完成を訪れて、モスクに改めることを命じた。21歳のスルタンは、このときから「征服者」と呼ばれるようになる。

メフメトは、町を壊したままにはしなかった。都をここに移し、ムスリムだけでなく、ギリシア人やアルメニア人、ユダヤ人を各地から移り住ませて人口を回復させた。ギリシア正教会には新しい総主教を立てさせ、正教徒の共同体の自治を認めた。彼は自らを、ローマ皇帝の後継者とも見なしていた。町はやがてイスタンブルの名で、オスマン帝国の都として、再び東地中海で最大の都市になっていく。
この陥落は、ヨーロッパに大きな衝撃を与えた。ただ、それが歴史をどう変えたかについては、見方が変わってきている。かつては、ギリシア人の学者たちが古典の写本を持ってイタリアに逃れ、ルネサンスを生んだと語られた。実際には、学者の移住はそれ以前から進んでおり、イタリアの古典への熱はすでに高まっていた(イタリア・ルネサンスの盛期)。陥落は、その流れを強めた一因と見るのが穏当だろう。

東地中海の交易の道がオスマンに握られたことが、ヨーロッパの人々を大西洋へ向かわせた、という説明も長く採られてきた。だが、ポルトガルのアフリカ西岸への進出は陥落より前の1415年のセウタ攻略に始まっており、オスマンは征服のあとも西との交易を続けた。いまでは、陥落と大航海の時代を直結させる見方は弱まっている。
1453年を中世の終わりとする区切り方も、後の歴史家が決めたものである。それでも、ローマ帝国の名を受け継いできた最後の国家がこの日に消えたことは、確かな区切りだった。モスクワの大公たちは、やがて最後の皇帝の姪を妃に迎え、自らをローマの後継者と称するようになる。そしてこの町は、いまもイスタンブルとして、二つの大陸のあいだに立っている。