カラハン朝のイスラーム受容
概要
草原のトルコ系の王朝が、初めて国としてイスラームを受け入れた。以後、中央アジアのトルコ語圏がイスラーム世界に組み込まれていく。
場所
39.47°N 75.99°E · 中国・新疆ウイグル自治区
本文
中央アジアの草原とオアシスに住むトルコ系の人びとは、長く天の神テングリを崇める信仰の中にあった。8世紀から9世紀にかけてモンゴル高原を治めたウイグル可汗国はマニ教を国の宗教とし、オアシスの町々には仏教の寺院が並んでいた。草原の人びとは、いくつもの信仰のあいだにいた。
イスラームは、8世紀にアラブの軍とともに中央アジアの西に入ってきた。751年のタラス河畔の戦いの後、アム川とシル川のあいだのオアシス地帯、ソグディアナはしだいにイスラーム世界に組み込まれていく。9世紀の後半には、ブハラを都とするサーマーン朝の興りが、この地にペルシア語の文化とイスラームの学問を花開かせた。サーマーン朝は、北の草原のトルコ人と境を接し、戦い、交易し、トルコ人の少年を奴隷として買って兵士に育て、西のイスラーム世界へ送り出していた。

その草原の側に、9世紀の後半ごろから、カラハン朝と呼ばれる王朝が力を持っていた。天山山脈の北と南、カシュガルやバラサグンを拠点とし、いくつかのトルコ系の部族がまとまった勢力だった。出自にはいくつかの説がある。
10世紀の半ば、その君主サトゥク・ボグラ・ハンがイスラームに改宗した。伝承によれば、まだ少年のころ、サーマーン朝から逃れてきた王子や、行き来するムスリムの商人と出会ってイスラームを知り、ひそかに信者になった。やがて叔父の君主を倒して自ら位に就いた、と伝えられる。伝承には伝説の色が濃いが、955年ごろに死んだ彼の墓は、カシュガルの近くのアルトゥシュにいまも残り、聖者の廟として敬われている。

960年、20万張の天幕に住むトルコ人がイスラームを受け入れたと、のちのアラビア語の年代記は記す。その集団の名ははっきり書かれていないが、カラハン朝の人びとのことと考えられている。数字はそのままには取れない。それでも、草原の大きな集団がまとまって改宗したことは確かと見られる。国としてイスラームを受け入れたトルコ系の王朝は、これが最初とされる。
改宗したカラハン朝は、南へ、西へと向かった。999年、カラハン朝の軍はブハラに入り、サーマーン朝を滅ぼした。同じ頃、アム川の南では、サーマーン朝に仕えたトルコ人の軍人の家から出たガズナ朝が力を持ち、その王マフムード・ガズナウィーはインドへ繰り返し攻め込んでいた。東では、カシュガルのカラハン朝が長い戦いの末に、仏教の王国ホータンを征服した。タリム盆地のオアシスがイスラームの地になっていく始まりで、いまの新疆の人びとの信仰は、ここにさかのぼる。
意味は大きかった。これ以後、中央アジアのトルコ語圏はイスラーム世界の一部になり、そこから出た軍人と王朝が、西アジアとインドを支配していく。11世紀には、別のトルコ系の集団から出たセルジューク朝が西へ進んでバグダードに入り、トゥグリル・ベグはカリフからスルタンの称号を受けた。1071年のマンジケルトの戦いを経て、トルコ人はアナトリアに入り、やがてその地からオスマン帝国の始まりが始まる。

11世紀のカラハン朝では、トルコ語で書かれた最初の大きな作品が生まれた。1069年ごろ、バラサグン出身のユースフ・ハース・ハージブが、王に捧げた長い教訓の詩『クタドゥグ・ビリグ(幸福になるための知恵)』を書いた。イスラームの教えと、ペルシアの王の心得と、草原の伝統が一つの詩の中で溶け合っている。同じ頃、カシュガル出身のマフムード・カーシュガリーは、バグダードでアラビア語によるトルコ語の辞典『トルコ語集成』を書き、トルコ系の諸部族の言葉や詩、ことわざを集めた。そこには、トルコ人の住む土地を円く描いた世界地図も添えられている。
カラハン朝は11世紀に東西に分かれ、12世紀には東から来たカラ・キタイ(西遼)に従い、13世紀のはじめに滅んだ。それでも、草原の言葉が、イスラームの文字と学問を通して書き言葉になったのは、この王朝の時代だった。草原の帝国の長い歴史の中で、大きな曲がり角の一つになる(物語「草原の帝国」)。