マイモニデス
概要
コルドバに生まれ、ムワッヒド朝の迫害でモロッコ、パレスティナ、カイロへ移った。サラディンの宮廷医で、ユダヤ教の法典を整え、アリストテレスと聖書を合わせた。「モーセからモーセまで、モーセに並ぶ者なし」と言われる。
所属
アイユーブ朝関わったできごと(1)
マイモニデス『迷える者の手引き』AD1190年 · 著者本文
ヘブライ語の名はモーシェ・ベン・マイモーン、マイモーンの子モーセという意味である。アラビア語ではムーサー・イブン・マイムーン。ユダヤ教の世界では、ラビ・モーシェ・ベン・マイモーンの頭文字をつないでラムバムと呼ばれる。マイモニデスは、そのギリシア語風の呼び名である。

1138年、イスラームの支配するイベリア半島のコルドバで生まれた(1135年とする説もある)。かつてカリフの都として栄えた町である(コルドバのカリフ宣言)。父マイモンはユダヤ教の法廷の裁判官を務める学者で、息子に聖書とタルムード、そして数学や天文学を教えた。当時のアンダルスでは、ユダヤ教徒はアラビア語で考え、書き、イスラームの哲学や科学の成果を吸収していた。少年もまた、その文化の中で育った。
10歳のころ、すべてが変わった。北アフリカから来たベルベル人のムワッヒド朝がコルドバを征服したのである。厳格なイスラームの改革を掲げるこの王朝は、ユダヤ教徒とキリスト教徒に、改宗か、国外への退去か、死かを迫った。一家は家を捨て、アンダルスの各地を転々とした。やがて1160年ごろ、ムワッヒド朝の本拠に近いモロッコのフェズに移った。迫害する側の足もとに住むという奇妙な選択で、この間、一家は表向きイスラームに改宗していたのではないかとする説が、当時からある。後年、彼を攻撃する者たちはそのことを持ち出した。彼自身は、強いられて口先で信仰を告白した者を、なおユダヤ教徒として扱うべきだと説く手紙を書いている。

1165年、一家は船で地中海を渡り、十字軍の支配するパレスティナのアッコに着いた。エルサレムやヘブロンの聖地を訪れたが、そこにとどまらず、同じ年のうちにエジプトへ移り、カイロの南の古い町フスタートに落ち着いた。エジプトはまだファーティマ朝の時代で、ユダヤ教徒は比較的自由に暮らすことができた。
最初のうち、彼は学問に専念できた。生活を支えたのは、インド洋との交易で宝石を商う弟ダヴィドだった。ところがダヴィドの乗った船がインド洋で沈み、弟は一家の財産もろとも海に消えた。マイモニデスは打ちのめされ、1年近く病の床に伏したと手紙に書いている。何年たっても、弟の筆跡を見るたびに悲しみがよみがえった、と。

一家を養うため、彼は医者になった。医術の腕はたちまち評判になった。サラディンがエジプトの実権を握りアイユーブ朝を開くと、その宰相でカーディーのファーディルに見いだされ、やがてサラディンの息子の侍医となった。後年、弟子への手紙に、彼は自分の一日を書いている。毎朝カイロの宮廷へ出かけ、王族や役人を診る。昼過ぎにフスタートに帰り着くと、家の前にはユダヤ教徒も異教徒も、身分の高い者も低い者も、患者が待ち構えていて、食事をとる暇もなく夜まで診察する。夜になると、疲れ果てて横になったまま口もきけない、と。彼はエジプトのユダヤ教徒の共同体の長も務め、各地のユダヤ教徒から寄せられる法の質問に答える手紙も書き続けた。
これほどの多忙の中で、彼は二つの大著を書いた。1180年ごろに完成した『ミシュネー・トーラー』は、14巻からなるユダヤ法の法典である。数百年にわたってラビたちが議論を重ねてきたタルムードは、膨大で、問答が入り組み、結論にたどり着くのが難しい。マイモニデスは、聖書とタルムードに含まれるすべての法を主題ごとに整理し直し、どの説が採られたかの結論だけを、明快なヘブライ語で書いた。祈りや食事の規定から、刑法、商取引、王と戦争の法までを網羅している。

序文で彼は、この書があれば、聖書の次にこれを読むだけで口伝の法のすべてを知ることができる、と書いた。これがラビたちの反発を招いた。タルムードの学習をないがしろにし、出典を示さずに結論を押しつけるものだ、と。それでもこの法典は、ユダヤ法の最も重要な書物の一つとして、今も学ばれている。
もう一つの主著が、1190年ごろに書かれた『迷える者の手引き』である(マイモニデス『迷える者の手引き』)。こちらはアラビア語で書かれた。宛てられたのは、ユダヤ教の信仰を持ちながら、アリストテレスの哲学を学んで、聖書の言葉との間で迷っている知識人だった。聖書が、神の手や神の怒りを語るとき、それは比喩である。神には体も感情もなく、人間の言葉で神について積極的に何かを言うことはできない。言えるのは、神が何でないかだけだ。理性と啓示は本来矛盾しない、と彼は説いた。同時代にコルドバ出身のイスラームの哲学者イブン・ルシュドが、アリストテレスとイスラームの教えの調和を論じていたのと、ちょうど対になる試みだった(イブン・ルシュドのアリストテレス注釈)。

彼の哲学は、ユダヤ教徒の間で激しい論争を引き起こした。死後まもなく、南フランスのユダヤ教徒の中で彼の著作を危険視する者たちが現れ、ついには著作が焼かれる事態にまで至った。一方、この書はラテン語に訳されてキリスト教世界にも伝わり、トマス・アクィナスは「ラビ・モーセ」として彼を引用している(トマス・アクィナス『神学大全』)。
彼は医学の著作も多く残した。健康を保つための食事と生活の心得、喘息や毒についての論考などで、これらはアラビア語で書かれ、ヘブライ語やラテン語にも訳された。

1204年、フスタートで死んだ。エジプトのユダヤ教徒は3日間喪に服し、イスラーム教徒も悼んだと伝えられる。遺体はのちにパレスティナのティベリアスに運ばれて葬られたとされる。後世、ユダヤ教徒は彼をこう讃えた。モーセからモーセまで、モーセのような者は現れなかった。聖書の預言者モーセから、モーシェ・ベン・マイモーンまで、という意味である。