人物

イブン・ジュバイル

Ibn Jubayr
AD1145年 – AD1217年(享年72・推定)
ムワッヒド朝重要度 3

概要

メッカ巡礼の道中を日ごとに書き留めた。十字軍の只中で、敵対する土地の農民が平穏に暮らしている様子まで、見たまま書いている。

関わったできごと(1)

イブン・ジュバイルの巡礼記AD1183年 · 著者

本文

イブン・ジュバイルは1145年、イベリア半島東部の港町バレンシアに生まれた。イスラームの支配するアンダルスの、学問の家柄だった。父も役人で、本人も若いころからクルアーンと法学、詩文を学び、文章の才で知られた。このころアンダルスと北アフリカは、ベルベル人の改革運動から生まれたムワッヒド朝が治めていた。イブン・ジュバイルはグラナダに移り、ムワッヒド朝のカリフの息子で、グラナダの総督だった人物の書記となった。

キリスト教徒とムスリムがチェスをする場面、13世紀の絵
キリスト教徒とムスリムがチェスをする場面、13世紀の絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

巡礼に出たきっかけについて、こんな話が伝わる。ある日、総督が酒席で、イブン・ジュバイルに無理やり7杯の酒を飲ませた。信仰の篤い彼にとって大きな罪である。総督は後で悔やみ、杯を7度、金貨で満たして与えた。イブン・ジュバイルはその金で、罪滅ぼしのメッカ巡礼に出た、という。後の伝記作家が書いた話で、どこまで本当かは分からない。

1183年2月、イブン・ジュバイルは友人の医者とともにグラナダを発った。北アフリカのセウタの港から、ジェノヴァ人のキリスト教徒の船に乗って地中海を東へ渡り、アレクサンドリアに着いた。ここで最初に書きとめたのは、税関の役人の横柄さだった。巡礼者の荷は残らずひっくり返され、女性の荷物までかき回された。一方で、カイロでは病院や学校の立派さに感心し、それらを整えたスルタンサラディンをほめたたえている。サラディンは、紅海の沿岸で巡礼者から取り立てられていた重い通行税を廃止していた。

サラディンとマムルークが隊商路の安全を保証した(グライア島)
サラディンとマムルークが隊商路の安全を保証した(グライア島)Wikimedia Commons David Roberts · Public domain

ナイル川をさかのぼり、砂漠をラクダで越えて紅海の港アイザーブへ出た。紅海を渡る船は、板を椰子の繊維で縫い合わせただけの粗末なもので、船主は巡礼者を荷物のように詰め込んだ。ジッダに上陸すると、今度はメッカの領主の役人に税を取り立てられた。イブン・ジュバイルは、聖地を治める者が巡礼者から搾り取ることに激しく憤っている。メッカには8か月あまりとどまり、巡礼の儀式、カアバ神殿の様子、町の暮らし、市場の品物、各地から来た巡礼者たちの姿を、細かく記した。

巡礼を終えると、メディナを経て、アラビアの砂漠を越えてイラクに入った。バグダードではカリフの宮殿と説教師の雄弁を見聞きし、北上してモスル、アレッポを経てダマスカスに着いた。この旅を、彼は毎日のように日付を付けて書き留めた。船賃、宿の様子、税関での扱い、町の人口や建物、そして自分が損をした話まで書いている。

いちばんよく読まれるのは、十字軍国家を通ったときの記述である。1099年の第1回十字軍のエルサレム占領以来、地中海の東岸にはヨーロッパから来た「フランク人」の国々があった。イブン・ジュバイルが通った1184年は、サラディンとフランク人が戦いを繰り返していた時期である。それでも、ダマスカスとフランク人の港町アッコのあいだを、ムスリムとキリスト教徒の商人の隊商が行き交っていた。兵士は戦いに没頭し、民は平穏のうちにある、と彼は書く。

第1回十字軍のエルサレム占領に関わる図版:Taking of Jerusalem by the Crusaders, 15th July 1099
第1回十字軍のエルサレム占領Wikimedia Commons Émile Signol · Public domain

フランク人の領地の村々では、ムスリムの農民が領主に収穫の一部を納めながら、自分の家と財産を保って平穏に暮らしていた。その税は、近くのムスリムの領主の下で暮らす人々より軽いほどだった。イブン・ジュバイルは見たままを書き、そのうえで、それは信仰にとって危ういことだと嘆いた。ムスリムの農民の心が、異教徒の公正さに引き寄せられてしまう、というのである。戦争の記録だけを読んでいると見えないものが、旅人の日記に残っている。

1184年10月、アッコからジェノヴァ人の船で帰途についたが、船はシチリアのメッシーナの海峡で難破した。シチリアはノルマン人の王国で(ルッジェーロ2世のシチリア王国)、王グリエルモ2世はアラビア語を読み書きし、ムスリムの役人や料理人、医者を宮廷に抱えていた。イブン・ジュバイルは、王が自ら難破した貧しいムスリムの船賃を払ってくれたことに驚きつつ、異教徒の王の下で暮らすシチリアのムスリムの不安にも耳を傾けている。1185年4月、2年あまりの旅を終えてグラナダに戻った。

ルッジェーロ2世のシチリア王国に関わる図版:Bandiera del Regno di Sicilia 4
ルッジェーロ2世のシチリア王国Wikimedia Commons Bandiera_del_Regno_di_Sicilia.svg : Oren neu dag Arms_of_the_Aragonese_Kings_of_Sicily.svg : Heralder derivative work: L · Public domain

1187年、サラディンがエルサレムを取り戻した(サラディンのエルサレム奪還)と聞くと、イブン・ジュバイルは再び東へ旅立った。晩年、妻を亡くすと三度目の旅に出て、1217年にアレクサンドリアで死んだ。

彼の旅行記は「リフラ」(旅)と呼ばれる文学の形を確立した(イブン・ジュバイルの巡礼記)。150年ほどのちにイブン・バットゥータの口述を文章にまとめた書記イブン・ジュザイイは、イブン・ジュバイルの旅行記から町の描写をそのまま借りて書き込んでいる。それほど手本として読まれていたのである。

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