第一次ウィーン包囲

概要
オスマン軍が中欧の入口まで達した。ヨーロッパがイスラム勢力を現実の脅威として意識する。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
スレイマン1世AD1494年–AD1566年 · オスマン側 · 総指揮本文
1520年にオスマン帝国の君主となったスレイマン1世は、即位の翌年にドナウ川の要地ベオグラードを、その翌年に地中海のロードス島を落とした。1526年、ハンガリーの平原モハーチで、ハンガリー王ラヨシュ2世の軍を破る(モハーチの戦い)。若い王は戦場から逃げる途中で溺れ死に、ハンガリーの王位が空いた。
王位をめぐって、二人が名乗りを上げた。一人はハンガリーの大貴族サポヤイ・ヤーノシュ、もう一人は、亡き王の義兄にあたるハプスブルク家のフェルディナントである。フェルディナントは神聖ローマ皇帝カール5世の弟で、オーストリアを治めていた。フェルディナントがブダを押さえてサポヤイを追うと、サポヤイはスレイマンに助けを求めた。スレイマンにとっては、ハンガリーをハプスブルク家に渡さないための出兵の口実になった。

1529年5月、スレイマンは大軍を率いてイスタンブールを出た。兵の数は10万を超えたとされるが、推計には幅がある。この年は雨が多く、道は泥に沈み、川はあふれた。大砲を引く家畜が倒れ、大きな攻城砲の多くは途中で置いていかざるをえなかった。軍は9月にブダを奪い返してサポヤイを王に据え、9月の下旬にようやくウィーンの前に着いた。出発から4か月以上がたっていた。
ウィーンを守る兵は、1万数千から2万ほどだったとされる。指揮をとったのは、老将のザルム伯ニクラスである。皇帝カール5世はイタリアにいて、援軍を送れなかった。守備側は城壁の外の家々を焼き払って敵の隠れ場所をなくし、城壁の内側に新しい土塁を築いた。
大砲の乏しいオスマン軍は、地下にトンネルを掘り、城壁の下で火薬を爆発させて崩そうとした。守る側も対抗してトンネルを掘り、敵の坑道を探り当てては壊した。城壁には何か所も穴が開き、オスマン軍は何度も突撃をかけたが、そのたびに押し返された。
寒さが近づいていた。オスマンの軍は、春に出て秋に帰るのが決まりで、遠い敵地で冬を越す備えは無い。兵の中では、とくに精鋭の常備歩兵イェニチェリの不満が高まった。10月14日の最後の総攻撃が失敗すると、スレイマンは包囲を解いた。包囲はおよそ3週間だった。帰り道では早い雪に襲われ、多くの兵と家畜が失われた。

軍事的には、ウィーンを落とすという目的は果たせなかった。それでも、イスラームの大国の軍が、神聖ローマ帝国の領域の奥深くまで来たことの衝撃は大きかった。ハンガリーの大半はオスマンの勢力圏に入り、ウィーンは国境の町になった。スレイマンは1532年にも再び遠征したが、ハンガリー西部の小さな城に足止めされ、ウィーンには届かなかった。その後ハンガリーは、オスマンの直轄地、ハプスブルクの領地、オスマンに従うトランシルヴァニアに、三つに分けられた。
この時期のヨーロッパは、宗教改革のただ中にあった。この年の春には、ドイツのシュパイアーの帝国議会で、ルター派の諸侯が皇帝側の決定に抗議を申し立てており、「プロテスタント(抗議する者)」という呼び名はここから生まれた。マルティン・ルターは包囲の年に、トルコとの戦いについての文章を書いている。トルコ人は、罪深いキリスト教徒に神が下した罰の鞭である、と述べたうえで、それに対して皇帝が国を守るために戦うことは正しい、ただし教皇が呼びかける十字軍としてではなく、と論じた。

カール5世とフェルディナントは、東のオスマンと西のフランスを同時に相手にしなければならなかった。フランス王はオスマンと手を結んでいた。皇帝がドイツの新教徒を力で押さえ込めなかった理由の一つに、オスマンの脅威があったという見方がある。ルター派が生き延びた背景に、ウィーンの城壁があったことになる。
ウィーンの包囲の後にコーヒーが広まった、パン屋が三日月の形のパンを焼いたのがクロワッサンの始まりだ、という話がよく語られる。これらはもともと154年後の1683年の第二次包囲に結びつけて語られた話で、それも後の時代の作り話とされている。その1683年、オスマン軍は再びウィーンを囲み、今度は救援の軍に大敗した(第二次ウィーン包囲)。それが、この帝国のヨーロッパでの前進の終わりになる。