できごと

シャジャル・アッ=ドゥッルの即位

Shajar al-Durr becomes Sultan
AD1250年
重要度 3
モンゴル帝国古シベリアの狩猟採集民バントゥー系の人びとトゥアレグの遊牧諸部族西遼(カラ・キタイ)西アフリカの穀作農民クマン(キプチャク)ベルベル諸部族ブワイフ朝マムルーク朝ファーティマ朝ラージプートの諸王国ガズナ朝デリー・スルタン朝神聖ローマ帝国デリー・スルタン朝そのほかのルーシ諸公国イファト王国ヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ポーランド王国フランス王国マリ帝国Kwarizm-Shahブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国アルワガーリチ=ヴォルィーニ公国ブワイフ朝ハドラマウトイエメン東ローマ帝国カネムガーナアルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesマリComté de Toulouseリトアニア大公国デンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドマスカットジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1250年カイロ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1250年の版図を描いています(53勢力)。

概要

奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。貨幣に名が刻まれ、カリフが認めなかった。

場所

カイロ
30.04°N 31.24°E · エジプト

関わった人(1)

シャジャル・アッ=ドゥッル?–AD1257年 · 即位

本文

シャジャル・アッ=ドゥッルとは、アラビア語で「真珠の木」を意味する。生まれた年も、どこで生まれたかも分からない。テュルク系とも、アルメニア系とも言われる。奴隷として売られ、エジプトとシリアを治めていたアイユーブ朝(アイユーブ朝)の王族サーリフの目にとまって、その側に仕えた。アイユーブ朝は、十字軍からエルサレムを取り戻したサラディンが開いた王朝である。彼女はサーリフの息子を産み、その子は幼くして亡くなったが、彼女は妻として迎えられた。

サーリフは1240年にエジプトのスルタンとなると、自分に忠誠を誓う軍を作るため、テュルク系の奴隷の少年を大勢買い入れ、兵士として育てた。彼らはナイル川の中州に兵営を与えられ、「川のマムルーク(奴隷軍人)」と呼ばれた。この奴隷の兵士たちが、やがてエジプトの歴史を動かすことになる。

1249年6月、フランス王ルイ9世の率いる十字軍がナイル川の河口の港ダミエッタに上陸し、町を奪った(第七回十字軍(ダミエッタ))。エジプトを押さえ、それと引き換えにエルサレムを取り戻そうという狙いだった。そのとき、スルタンのサーリフは重い病に冒されていた。11月、十字軍がカイロへ向けて進みはじめたころ、サーリフはナイルのほとりの町マンスーラの陣営で亡くなった。

第七回十字軍(ダミエッタ)に関わる図版:Seventh crusade
第七回十字軍(ダミエッタ)Wikimedia Commons Guillaume de Saint-Pathus, Vie et miracles de Saint Louis · Public domain

軍の総帥が倒れたと知れれば、エジプトの軍は崩れ、十字軍はカイロまで進むだろう。シャジャル・アッ=ドゥッルは、夫の死を隠すことに決めた。打ち明けたのは、軍の司令官ファフル・アッディーンと、宮中の宦官の長だけだった。遺体はひそかに運び出された。スルタンの天幕には毎日いつもどおり食事が運び込まれ、命令書には、スルタンの筆跡をまねる者が署名を続けた。スルタンは病が重く人に会えない、とだけ伝えられた。その間に、遠くティグリス川の上流の城にいたサーリフの息子トゥーラーンシャーに使いが送られた。

1250年2月、十字軍の先鋒がマンスーラの町に突入した。だが狭い町の通りで、マムルークの兵が待ち構えていた。突入した騎士たちは討ち取られ、ルイ9世の弟アルトワ伯ロベールも殺された。このとき活躍したマムルークの一人に、のちのスルタン、バイバルスがいた。十字軍は進むことも退くこともできなくなり、疫病と飢えに苦しんだ。その月の終わりにトゥーラーンシャーが着いてスルタンを継ぎ、4月、退却しようとした十字軍を追い詰めて、ルイ9世を捕虜にした。

シャジャル・アッ=ドゥッルの治世の金貨
シャジャル・アッ=ドゥッルの治世の金貨Wikimedia Commons Stanley Lane Poole · Public domain

ところが新しいスルタンは、父に仕えた人々を信じなかった。自分の連れてきた側近を重んじ、マムルークたちを遠ざけ、シャジャル・アッ=ドゥッルには父の財産を差し出すよう迫った。1250年5月、マムルークたちは反乱を起こし、トゥーラーンシャーを殺した。斬りつけられたスルタンは木の塔に逃げ込み、火をかけられてナイル川に飛び込んだところを討たれたと伝えられる。

マムルークたちは、新しい君主に、亡きサーリフの妻を選んだ。シャジャル・アッ=ドゥッルはスルタンとして即位した。彼女の名前は金曜の礼拝の説教で読み上げられ、貨幣には「ムスリムたちの女王」「スルタン・ハリールの母」という称号とともに、その名が刻まれた。イスラームの世界で、女性が君主として自分の名で国を治めた例は、ほとんどない。即位した彼女は、捕虜となったルイ9世との交渉をまとめ、身代金とダミエッタの返還と引き換えに王を解放した。

シャジャル・アッ=ドゥッルを描いた1966年のスケッチ
シャジャル・アッ=ドゥッルを描いた1966年のスケッチWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが、この即位を認めない者たちがいた。シリアのアイユーブ家の王族たちは、エジプトでの奴隷たちの政変を受け入れなかった。そしてバグダードのアッバース朝のカリフは、エジプトに書き送ったと伝えられる。お前たちのところに男がいないのなら、こちらから一人送ってやろう。イスラームの君主はカリフに認められてこそ正統とされた時代で、この拒絶は重かった。

即位からおよそ80日後、シャジャル・アッ=ドゥッルはマムルークの将軍アイバクと結婚し、位を彼に譲った。だが実権は手放さず、国の政務は引き続き彼女の手を通った。アイバクの名で出される命令の陰に、彼女がいた。7年後の1257年、アイバクがシリアの有力者の娘を新しい妻に迎えようとしていると知ると、彼女はアイバクを浴場で殺させた。数日後、彼女自身も、アイバクの前の妻の侍女たちに木の浴場履きで打ち殺された。遺体は城の外の堀に投げ捨てられたという。

シャジャル・アッ=ドゥッルの即位とアイバクの即位によって、奴隷の兵士たちが君主となるマムルーク朝(マムルーク朝)が始まった。この王朝は、1258年にバグダードの陥落を見届けたあと、1260年にはモンゴルの軍をアイン・ジャールートの戦いで破り、その後250年以上にわたってエジプトとシリアを治めることになる。カイロの町には、彼女が自分のために建てた小さな廟が、いまも残っている。

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