人物

サラディン

Saladin
AD1137年頃 – AD1193年(享年56・推定)
アイユーブ朝重要度 4

概要

エルサレムを十字軍から奪い返した。敵からも寛大さを讃えられ、騎士道の理想像として語られる。

所属

アイユーブ朝

関わったできごと(3)

サラディンのエルサレム奪還AD1187年 · 当人ヒッティーンの戦いAD1187年7月4日 · 総指揮第三回十字軍のアッコン攻囲AD1191年7月12日 · 相手

本文

1137年か1138年、ティグリス川のほとりの町ティクリート(いまのイラク)に、クルド人の家の子として生まれた。本名はユースフ。サラディンは、称号サラーフッディーン(「信仰の正しさ」)がヨーロッパでなまったものである。父アイユーブはこの町の城代だったが、伝えによれば、サラディンが生まれたその夜、叔父のシールクーフが人を殺したために、一家は町を追われた。

一家は北のモスルを治めるザンギーに仕え、やがてその子でシリアの支配者となったヌールッディーンのもとで重んじられた。サラディンはダマスクスやバールベックで育ち、学問を好み、もの静かな若者だったという。当時のシリアとパレスチナの海岸には、1099年の第1回十字軍のエルサレム占領以来、ヨーロッパから来た十字軍の国々が並んでいた。ヌールッディーンは、ばらばらだったイスラーム側の町々をまとめ、十字軍に対する聖戦を掲げた。

第1回十字軍のエルサレム占領に関わる図版:Taking of Jerusalem by the Crusaders, 15th July 1099
第1回十字軍のエルサレム占領Wikimedia Commons Émile Signol · Public domain

転機はエジプトだった。エジプトを治めていたのは、シーア派のファーティマ朝である。王朝は内紛で衰え、エルサレム王国とヌールッディーンの双方が、その支配を狙った。1164年から叔父シールクーフがヌールッディーンの命で3度エジプトへ遠征し、サラディンもそれに従った。1169年、シールクーフはファーティマ朝の宰相の座に就いたが、2か月ほどで急死した。後を継いで宰相になったのが、31歳のサラディンだった。

1171年、サラディンは金曜礼拝で唱える名を、ファーティマ朝のカリフから、バグダードにいるスンナ派のアッバース朝のカリフに切り替えさせた。病床にあった最後のファーティマ朝のカリフは、まもなく亡くなった。こうして260年あまり続いた王朝は、ほとんど流血もなく終わった(ファーティマ朝の成立)。エジプトの富を握ったサラディンと、主君ヌールッディーンとの間には緊張が高まったが、1174年にヌールッディーンが亡くなったことで、正面からの衝突は避けられた。

水時計の仕組みを描いた写本(『精巧な機械装置の知識の書』1354年の写本)
水時計の仕組みを描いた写本(『精巧な機械装置の知識の書』1354年の写本)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

主君の死後、サラディンはダマスクスに入り、10年あまりをかけてアレッポやモスルを従えた。十字軍と戦う前に、イスラーム側の諸侯と戦う年月の方が長かった。エジプトとシリアを一つにまとめたこの国は、のちに父の名を取ってアイユーブ朝と呼ばれる。十字軍の国々とは、戦いながらも休戦の約束を繰り返し結んでいた。

その休戦を破り続けたのが、十字軍側の領主ルノー・ド・シャティヨンだった。彼は休戦中にもかかわらず、メッカへ向かう巡礼や隊商を襲い、紅海に船を浮かべて聖地メッカとメディナまで脅かした。サラディンは、この男だけは自分の手で殺すと誓った。

1187年7月、サラディンはガリラヤ湖の西で、エルサレム王国の全軍を迎え撃った。夏の乾いた丘で水場を断たれた十字軍は、渇きに苦しみながら戦い、7月4日、ヒッティーンの丘で壊滅した(ヒッティーンの戦い)。天幕に引き出された王ギーに、サラディンは雪で冷やした水を与えた。王がその杯をルノーに回すと、サラディンは、水を与えたのは自分ではない、と言い、客として扱う義務は無いとしてルノーを自らの手で斬った。王の命は助けた。一方、捕らえたテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の騎士たちは、200人ほどがまとめて処刑された。

ヒッティーンの戦いに関わる図版:Saladin Guy
ヒッティーンの戦いWikimedia Commons Matthew Paris · Public domain

主力を失った十字軍の町々は次々に降った。10月2日、エルサレムが開城した(サラディンのエルサレム奪還)。88年前、十字軍がこの町に入ったときには、住民の大殺戮が行われた。サラディンは町の者たちに身代金を払って立ち去ることを認め、略奪や殺戮を許さなかった。払えない貧しい人々の多くを、自分や弟の金で解放した。ただし、身代金を払えないまま奴隷にされた人々も数多くいた。岩のドームの上に立てられていた十字架は降ろされた。

エルサレムを失った知らせはヨーロッパを揺るがし、イングランドのリチャード1世(獅子心王)、フランス王、神聖ローマ皇帝が率いる第三回十字軍が起こされた。1191年、十字軍は海岸の町アッコンを2年がかりで奪い返した(第三回十字軍のアッコン攻囲)。リチャードは、捕虜の交換の取り決めが滞ったとして、捕らえていたイスラーム教徒の兵ら約3000人を城外で殺させた。その後もリチャードは戦場では何度もサラディンの軍を破ったが、エルサレムを奪い返す力は無かった。

15世紀の装飾写本中の「エジプトの王、サラディン」
15世紀の装飾写本中の「エジプトの王、サラディン」Wikimedia Commons Public domain

二人の間には、敵同士とは思えないやりとりが伝わる。戦いの中でリチャードの馬が倒れると、サラディンの弟が見事な馬を2頭贈った。リチャードが熱病に倒れたときには、果物と、山から運ばせた雪を届けたという。リチャードは自分の妹とサラディンの弟を結婚させて、エルサレムを二人で治めさせるという案まで持ちかけた。だが、二人の王が顔を合わせたことは一度も無い。1192年、両者は和約を結び、十字軍は海岸の細長い土地を保ち、キリスト教徒の巡礼はエルサレムを訪れることを許された。

その翌年、1193年3月4日、サラディンはダマスクスで熱病のために亡くなった。55歳前後だった。側近の伝記作者によれば、残された財産は銀貨47枚と金貨1枚だけで、家も土地も無く、葬儀の費用は借りなければならなかった。富は戦いと施しに使い尽くされていた。遺体はダマスクスの大モスクのそばの廟に葬られた。死後、国は息子と弟たちに分けられ、やがてその家臣だったマムルークたちに取って代わられる。

パーマー・カップに描かれたアイユーブ朝またはザンギー朝の兵士(1200-1215年、大英博物館)
パーマー・カップに描かれたアイユーブ朝またはザンギー朝の兵士(1200-1215年、大英博物館)Wikimedia Commons 13th century painter · Public domain

アラブの歴史家の中には、サラディンの寛大さを、政治の甘さとして批判する者もいた。それでもヨーロッパでは、敵でありながら理想の騎士として語られるようになった。ダンテ・アリギエーリは『神曲』で、彼を古代の賢者たちとともに、地獄の中で罰を受けない辺土に置いた。18世紀のドイツの劇作家レッシングは、宗教の違いを越えた寛容を描いた劇に、賢い君主として彼を登場させている。そしてイスラーム世界では、20世紀以降、外からの支配と戦う英雄として、繰り返しその名が呼び起こされてきた。

動画(1)

イスラームの英雄 サラディン 〜十字軍が最も恐れた男の生涯~【COTEN RADIO #311 】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOクルド人の一族がなぜエジプトとシリアをまとめられたのか。十字軍側の評価も扱う
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1137年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →