サラディンのエルサレム奪還
概要
88年ぶりに奪い返した。虐殺を行わなかったことが、敵側の記録にも残る。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
サラディンAD1137年頃–AD1193年 · 当人本文
1099年、第1回十字軍はエルサレムを攻め落とし、町のムスリムとユダヤ教徒を大勢殺した(第1回十字軍のエルサレム占領)。以後、地中海の東岸には十字軍の国々が並び、エルサレムはその中心の王国の都になった(エルサレム王国)。イスラーム世界の側は、はじめ分裂していて反撃できなかった。12世紀の半ば、シリアのザンギー朝のヌールッディーンが、異教徒からの聖地の奪回を聖戦として掲げ、シリアをまとめていった。
その配下にいたクルド人の武将が、サラディン(サラーフッディーン)である。叔父とともにエジプトに送られ、1169年にファーティマ朝の宰相になり、1171年にはその王朝を終わらせた。ヌールッディーンの死後はシリアにも勢力を広げ、エジプトとシリアを一つにまとめる(アイユーブ朝)。十字軍国家は、南と東から同じ君主に挟まれることになった。
十字軍国家の内部は割れていた。王位をめぐる争いがあり、領主の一人ルノー・ド・シャティヨンは、休戦の最中にメッカへ向かう巡礼や隊商を襲った。1187年7月4日、サラディンはガリラヤ湖の西のヒッティーンで、十字軍の主力を水のない丘に誘い込んで壊滅させた(ヒッティーンの戦い)。王ギーは捕らえられ、サラディンはルノーを自らの手で斬った。捕虜になったテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の騎士およそ200人は、その場で処刑させている。王の命は助け、のちに釈放した。

ヒッティーンで野戦の兵をほぼ失った十字軍国家は、守る兵のいない町を次々に明け渡した。アッコン、シドン、ベイルートが落ち、残る大きな町は、海から援軍の届いたティルスくらいになった。9月20日、サラディンの軍はエルサレムを囲んだ。
町を守ったのは、ヒッティーンから逃れてきた貴族バリアン・ディブランだった。騎士はほとんどおらず、町には周辺から逃げ込んだ難民があふれていた。バリアンは市民の男たちを騎士に叙して城壁を守らせたが、10日ほどで城壁の一部が崩された。追いつめられたバリアンは、降伏を認めないなら、町の聖所を壊し、町にいるムスリムの捕虜を殺し、最後の一人まで戦う、とサラディンに迫ったと伝えられる。交渉がまとまり、10月2日、町は開城した。イスラームの暦で、預言者ムハンマドが夜の旅で天に昇ったとされる日の記念日にあたっていた。

条件は、住民が身代金を払えば財産を持って町を出てよい、というものだった。男は10ディーナール、女は5ディーナール、子どもは1ディーナールで、期限は40日とされた。払えない貧しい人々も多く、バリアンは手元の資金で7000人分をまとめて払った。サラディンの弟アーディルは、兄に願い出て1000人を譲り受けて解放し、サラディン自身も、老人や夫を失った女性たちを身代金なしで去らせたと記録されている。それでも払えなかった数千の人々は、奴隷として売られた。寛大さには限りがあったが、88年前の虐殺とは対照的だった。
町の中では、岩のドーム(岩のドーム)の頂に掲げられていた十字架が引き下ろされ、十字軍が王宮や騎士団の本部にしていたアクサー・モスクは、清められて礼拝の場に戻された。ヌールッディーンがエルサレム奪回の日のために作らせていた説教壇が、アレッポから運ばれて据えられた。聖墳墓教会は壊されず、しばらく閉じられた後、東方のキリスト教徒が守り、巡礼も受け入れられた。

エルサレムの陥落はヨーロッパに衝撃を与え、第3回十字軍が組織された。イングランド王リチャード1世(獅子心王)らがアッコンを取り返したが(第三回十字軍のアッコン攻囲)、エルサレムには届かなかった。1192年の講和で、海沿いの細い土地は十字軍の側に残り、エルサレムはサラディンの手にとどまったまま、キリスト教徒の巡礼は認められた。サラディンは翌1193年、ダマスクスで死んだ。財産のほとんどを配り尽くしていて、葬儀の費用にも足りなかったと伝えられる。
敵の側の記録にも、サラディンの寛大さは残った。ヨーロッパでは、彼は信義を重んじる騎士の鑑として、物語や詩に描かれていく。ダンテは『神曲』で、キリスト教徒でない者の中でも徳の高い人々を集めた地獄の第一圏、苦しみのない場所に彼を置き、一人離れて立つ姿で描いた。アラブの側から十字軍の時代を描いた本でも、サラディンは特別な存在として語られる(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)。一方で、ヒッティーンの後の騎士たちの処刑のように、彼が常に寛大だったわけではない。政治家として計算し、ときに苛烈な判断を下した人でもあった。