ティムール帝国の拡大
概要
中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドには各地から職人と学者が集められる。
場所
39.63°N 66.97°E · ウズベキスタン
関わった人(1)
ティムールAD1336年4月9日–AD1405年2月18日 · 当人本文
1370年、中央アジアのバルフで、ティムールが権力を握った。それから35年、彼は一度もほとんど休まずに戦い続けた。
ティムールは1336年頃、サマルカンドの南、ケシュ(いまのシャフリサブズ)の近くに生まれた。モンゴル系でトルコ化したバルラス部族の、小さな貴族の家である。当時の中央アジアは、モンゴル帝国の拡大の後継国家の一つ、チャガタイ・ハン国が東西に割れ、部族の長たちが争っていた。若いティムールは、家畜を奪う盗賊まがいの暮らしから身を起こしたとされる。戦いで右足と右腕を傷め、足を引きずった。ペルシア語で「足の悪いティムール」と呼ばれ、それがヨーロッパで「タメルラン」になった。1941年にソ連の学者が墓を開けて骨を調べ、足と腕の古い傷を確かめている。

彼には、乗り越えられない壁があった。チンギス・ハンの血を引いていない。モンゴルの伝統では、ハンを名乗れるのはチンギスの子孫だけだった。そこでティムールは、チンギスの子孫を名目のハンに立て、自分は「アミール(司令官)」にとどまった。チンギス家の王女を妻にし、「キュレゲン(婿)」と称した。正統性の不足を、勝ち続けることで埋めようとした、という見方がある。
遠征の範囲は広い。ホラズム、イランの諸都市、カフカス、そして北のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)。ジョチ・ウルスの君主トクタミシュは、もとはティムールが後押しした人物だったが、のちに敵に回った。ティムールはこれを二度にわたって破り、都サライを焼いた。この打撃でジョチ・ウルスは衰え、ロシアの諸公がその支配から抜け出す遠因になったとされる。

1398年にはインドへ入り、デリー・スルタン朝の成立の都デリーを落とした。デリーでは大規模な殺戮と略奪が行われ、町はしばらく立ち直れなかった。1401年にはシリアのダマスクスとイラクのバグダードを攻めた。ダマスクスの包囲のとき、北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥーンがティムールに会い、何日も話を交わした記録を残している。
1402年、小アジアのアンカラでオスマン朝のバヤズィト1世(雷帝)を破り、捕虜にした(アンカラの戦い)。勢いに乗っていたオスマンはこれで一時ばらばらになり、コンスタンティノープルの陥落は半世紀遅れたと言われる。

ティムールの遠征は、恐ろしさでも知られる。イランのイスファハーンが反乱を起こしたとき、ティムールは住民を殺し、その首で塔を築かせたと、複数の記録が伝える。バグダードでもデリーでも同じことが記されている。死者の総数を見積もる試みはあるが、根拠が乏しく、幅もきわめて広い。
その一方で、ティムールは征服した町から人を連れ去った。石工、陶工、織工、画家、写本師、学者。殺さずにサマルカンドへ送り、都を飾らせた。カスティーリャ王の使節クラビホは、1404年にサマルカンドを訪れ、各地から集められた職人たちと、建ち並ぶ宮殿や庭園の様子を書き残している。

その時期の建物が、いまも町に残っている。インド遠征の富で建てたビービー・ハーヌム・モスクは、急ぎすぎた工事のため、完成してまもなく崩れはじめたと伝えられる。グーリ・アミール廟は、もとは早世した孫のために建てられ、のちにティムール自身もここに葬られた。青いタイルで覆った大きなドームと門の様式は、この後イランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国の建築へ受け継がれていく。
1404年の冬、ティムールは最後の遠征に出た。相手は東の明の成立で成った明である。明はかつて元をモンゴル高原へ追い払った王朝で、ティムールはこれを討ってモンゴルの栄光を取り戻すつもりだったとも言われる。翌1405年2月、シル川のほとりのオトラルで病に倒れ、死んだ。70歳に近かった。明では永楽帝が即位して間もないころで、両者が戦うことは無かった。

ティムールの死後、帝国はすぐに息子や孫たちの争いで割れた。それでも、息子シャー・ルフがヘラートで、孫ウルグ・ベクがサマルカンドで治めた時代は、学芸が栄えた時代として知られる。ウルグ・ベクは天文台を建てて星の位置を測り、千を超える星の表を作った(ウルグ・ベクの星表)。ペルシア語の詩と細密画も、この時代に大きく花開く。
16世紀の初め、ティムールの子孫バーブルは、中央アジアを追われてインドに入り、ムガル帝国を開いた。破壊者として恐れられた人物の名は、こうして青いドームと、インドの王朝の名とともに残った。