ブワイフ朝のバグダード入城
概要
カスピ海の南のダイラム人の兄弟が、シーア派のままバグダードに入り、スンナ派のカリフを傀儡にした。カリフは印章を押すだけの人になる。100年後、セルジュークが同じことをする。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
本文
カスピ海の南岸に連なる山地は、ダイラムと呼ばれた。7世紀にアラブの軍がイランを征服した後も、この険しい山の人々はなかなか従わず、イスラームが根づいたのは10世紀に近いころである。広まったのは、シーア派の一派ザイド派だった。山の暮らしは貧しく、ダイラムの男たちは、歩兵の傭兵として各地の軍に雇われていった。
ブワイフ(ブーヤ)という男には、アリー、ハサン、アフマドの三人の息子がいた。父は漁師だったと伝えられる。兄弟はダイラムの傭兵の隊長として頭角を現し、934年、長兄のアリーがイラン南部のファールスを奪ってシーラーズを拠点とした。次兄のハサンはレイやエスファハーンなどイラン中部を、末弟のアフマドは南西のフーゼスターンを取り、さらにイラクをうかがった。

当時のバグダードのアッバース朝は、すでに見る影もなかった。ハールーン・アッラシードの治世の時代の栄華は昔のことで、カリフはトルコ人の軍人たちに担がれ、廃され、目を潰された。936年からは、軍の司令官が「大アミール」の称号で実権を握っていた。地方には自立した王朝が並び、カリフの命令が及ぶのはバグダードの周りだけになっていた。
945年12月、アフマドはほとんど抵抗を受けずにバグダードに入った。トルコ人の司令官たちは逃げ去っていた。カリフのムスタクフィーはアフマドを迎え、「ムイッズ・アッダウラ」(国家の栄光を与える者)の称号と大アミールの地位を授けた。兄のアリーには「イマード・アッダウラ」(国家の支柱)、ハサンには「ルクン・アッダウラ」(国家の柱)の称号が贈られた。だが翌年の初め、ムイッズ・アッダウラは、カリフが自分を除こうとしていると疑い、ムスタクフィーを玉座から引きずり下ろして目を潰し、別のアッバース家の者を新しいカリフに立てた。

シーア派の兄弟が、スンナ派の信仰の頂点にあるカリフを手中にした。それでも彼らは、カリフの位を廃止せず、シーア派が正統とするアリーの子孫をカリフに立てることもしなかった。後世の歴史家は、側近が、アリーの子孫を立てれば兵はその命令に従い、あなたの命令には従わなくなる、と進言したと伝えている。名ばかりのカリフは、かえって使い道があった。カリフは金曜の礼拝で名を唱えられ、称号を与え、任命の文書に印を押す。広い地域のスンナ派の人々は、その名によって新しい支配者を受け入れた。
ブワイフ朝のもとで、バグダードのシーア派は表に出た。963年、ムイッズ・アッダウラは、ムハッラム月10日を公の追悼の日とした。カルバラーの悲劇で殺されたフサインを悼む日である。市場は閉じられ、人々は喪に服して街を歩いた。ムハンマドがアリーを後継者に指名したとシーア派が信じる出来事を祝う祭りも、同じころから公に行われた。バグダードのシーア派が多く住む地区とスンナ派の地区の間では、その日をきっかけに、毎年のように衝突が起きた。

ブワイフ朝の最盛期を築いたのは、ハサンの子のアドゥド・アッダウラである。彼は一族の領土をまとめ、978年にバグダードを押さえて、古いペルシアの王の称号「シャーハンシャー」(王の中の王)を名乗った。バグダードには大きな病院を建て、シーラーズには膨大な蔵書の図書館を置き、アリーの墓所とされるナジャフに廟を建てた。ブワイフ朝の宮廷は学者や詩人を庇護し、医学と哲学のイブン・スィーナーも、一時その一族に仕えて宰相を務めている。東のサーマーン朝の興りとともに、アラブの征服の後に埋もれていたペルシアの言葉と文化が再び表に出てくる時代だった。また、兵に給料の代わりに土地からの税の取り分を与える仕組みが広まり、のちのイスラーム世界の軍事と土地の制度の型になった。
だがアドゥド・アッダウラの死後、一族は分かれて争い、力を失っていった。1055年、中央アジアから来たスンナ派のトルコ人、セルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードに入り、ブワイフ朝の最後のアミールを捕らえた。カリフは新しい主人を「スルタン」と認めた。カリフを残して実権を握るという、ブワイフ朝が始めた形は、ほとんどそのままセルジューク朝に引き継がれた。カリフが宗教の権威として残り、武力を持つ者が政治を担う。イスラーム世界の権力のこの二重の形は、945年のバグダードで定まったと言える。