アクバル
概要
異教徒への人頭税を廃し、宗教の違いを超えた統治を試みた。ムガルの基礎を固める。
所属
ムガル帝国関わったできごと(2)
ムガル帝国の成立AD1526年 · 基礎を固めたアクバルの宗教討論AD1575年 · 主宰本文
1542年、いまのパキスタン南部シンド地方の町ウマルコートに生まれた。父はムガル朝の2代皇帝フマーユーン。祖父バーブルがインドに開いた王朝(ムガル帝国の成立)は、このころアフガン系のスール朝に追われ、父は国を失って逃げる途中だった。幼いアクバルは、叔父のもとに人質同然に残されて育った。

父がペルシアの助けを得て、1555年にデリーを取り戻した。翌年の初め、父は書庫の石段から転げ落ちて死んだ。13歳のアクバルが即位したが、デリーはすぐにスール朝の武将ヘームーに奪い返された。後見役の将軍バイラム・ハーンが軍を率い、1556年11月、第二次パーニーパットの戦いでヘームーを破った。目に矢を受けて捕らえられたヘームーは、その場で首をはねられた。
読み書きができなかったとされる。幼いころから狩りや象、剣の稽古に夢中で、教師が何人代わっても文字を覚えなかった。読み書きの障害があったのではないかという説もある。そのぶん人に本を読ませて聞き、驚くほどよく覚えていたと伝えられる。集めた書物は2万冊を超えたとされる。

18歳で、権勢をふるうようになったバイラム・ハーンを退け、自ら政治を握った。そこから半世紀近く、征服を続けた。北インドの中心から、西のグジャラート、東のベンガル、北のカシミール、そして南のデカン高原の入口まで。帝国はインド亜大陸の北半分を覆うまでになった。征服には苛烈な面もあった。1568年にラージプートの城チトールを落としたときは、守備兵だけでなく大勢の住民を殺させている。
戦うだけでは、少数のムスリムの支配者が、多数のヒンドゥーの住む土地を治め続けることはできない。アクバルは統治の枠を広げた。1562年、ラージプートの王家アンベールの王女と結婚し、その一族を宮廷の高官や将軍に取り立てた。妃はヒンドゥーの信仰を保つことを許された。ラージプートの王たちは、敵から帝国の柱へ変わっていった。翌年にはヒンドゥーの巡礼にかかる税を、1564年には非ムスリムに課されていた人頭税ジズヤを廃止した。

1571年からは、待ち望んだ跡継ぎの誕生を予言した聖者にちなんで、アーグラ近くに新しい都ファテープル・シークリーを築いた。その中に1575年、「信仰の館」(イバーダト・ハーナ)を建て、宗教の議論の場とした(アクバルの宗教討論)。初めはイスラームの学者どうしの議論だったが、やがてヒンドゥー、ジャイナ教、ゾロアスター教の学者、そしてゴアから招いたイエズス会の宣教師たちも加わった。議論はしばしば罵り合いになったという。
そこからアクバルは、どの宗教にも真理の一部があると考えるようになった。すべての人と和する「スルヘ・クル」を統治の原則とし、1582年頃には、皇帝を中心とした独自の信仰の集まり「ディーネ・イラーヒー」を作った。ただ、加わったのは宮廷の側近たち十数人ほどで、宗教として広まることはなかった。正統派のイスラーム学者たちは、皇帝が信仰を捨てたと強く反発した。

国を動かす仕組みも作った。財務を任されたヒンドゥーの官僚トーダル・マルが土地を測り、10年ごとの平均の収穫から税を決める方法を整えた。官僚と将軍には「マンサブ」という位を与え、位に応じて養う騎兵の数と俸給を定めた。位は一代限りで、世襲の領主が育たないようにした。この二つが、ムガル帝国の骨組みになる。
宮廷には才人が集まった。歴史家アブル・ファズルは皇帝の伝記『アクバル・ナーマ』を書き、楽人ターンセーンの歌は伝説になった。インドの叙事詩『マハーバーラタ』はペルシア語に訳され、細密画で飾られた。

晩年は、跡継ぎの息子サリームの反抗に悩まされた。1602年には、腹心のアブル・ファズルがサリームの差し金で殺された。アクバルは悲しみに暮れたが、最後は息子と和解した。1605年、病に倒れ、10月にアーグラで亡くなった。63歳だった。サリームはジャハーンギールと名乗って即位した。
アクバルの寛容の政策は、孫のシャー・ジャハーン(タージ・マハルの完成)の代を経て、曾孫アウラングゼーブの代に大きく転換する。アウラングゼーブは1679年に人頭税を復活させ、ヒンドゥーの寺院を壊させた(アウラングゼーブの治世)。帝国は最大の版図に達する一方で、各地の反乱に揺れていった。それだけに、アクバルの名は、宗教の違う人々が一つの国でどう暮らせるかを問うとき、いまもインドで繰り返し呼び出される。