できごと

『諸国地名辞典』

Yaqut's Dictionary of Countries
AD1228年
重要度 3
モンゴル帝国古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族西遼(カラ・キタイ)西アフリカの穀作農民クマン(キプチャク)アイユーブ朝チベットキエフ・ルーシブワイフ朝ファーティマ朝ラージプートの諸王国ガズナ朝神聖ローマ帝国デリー・スルタン朝デリー・スルタン朝そのほかのルーシ諸公国ノルウェーイファト王国ヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝ノヴゴロド公国マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ルーム・セルジューク朝チョーラ朝ポーランド王国スウェーデンKwarizm-Shahブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国アルワガーリチ=ヴォルィーニ公国フランス王国ブワイフ朝ハドラマウトイエメン東ローマ帝国カネムアルメニアキーウ公国IbaditesComté de Toulouseデンマークネパールブルゴーニュマスカットジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1228年バグダード
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概要

ギリシア人の奴隷から解放され、商人として各地を歩いた人が、地名を辞書にまとめた。モンゴルの侵攻の直前で、失われた都市の記録が多く残る。

場所

バグダード
33.32°N 44.37°E · イラク

関わった人(1)

ヤークート・アル=ハマウィーAD1179年頃–AD1229年 · 編纂

本文

編者のヤークート・アル=ハマウィーは、1179年ごろ、東ローマ帝国の領内でギリシア人の子として生まれた。幼いうちに捕えられ、奴隷としてバグダードへ連れてこられ、シリアのハマー出身の商人に買われた。ヤークートは「ルビー」の意味で、奴隷によくつけられた名である。のちの名乗りの「ハマウィー」は、この主人の出身地からきている。

主人は自分ではあまり学問のない人だったと伝えられるが、少年に文法と算術を学ばせ、商売の役に立てようとした。ヤークートはやがて主人の代理として、ペルシア湾の島々やオマーン、シリアへ商いに出るようになる。1199年ごろ、主人との間に争いがあって解放され、写本を書き写して売る仕事で暮らしを立てた。写字生として一冊ずつ本を写すうちに、学問そのものに引き込まれていった。

1213年ごろから、ヤークートは長い旅に出る。タブリーズ、モスル、ダマスクス、カイロを回り、1216年ごろ中央アジアの大都市メルヴに着いた。メルヴには寄進で建てられた図書館がいくつもあり、そのうちの一つには1万2000冊の蔵書があったと彼は書いている。本は気前よく貸し出され、彼は一度に200冊を手元に置いていたこともあったという。2年あまりをここで過ごし、地名の記録を集めた。

旅は平穏ではなかった。1213年、ダマスクスで、預言者の娘婿アリーをめぐる議論で人びとを怒らせ、町を逃げ出さなければならなかったと伝えられる。商いと学問の旅は、宗派の対立の激しい土地を渡り歩くことでもあった。それでも彼は行く先々で写本を探し、学者を訪ね、町の名の正しい読み方を土地の人に確かめた。アラビア文字は母音を書かないので、同じ綴りでも読み方が分かれる。地名の読みを確定することは、それだけで大仕事だった。

1220年、チンギス・ハンの軍がホラズム・シャー朝の領土に攻め込んだ。ヤークートはそのときアム川下流のホラズムにいて、ほとんど身ひとつで西へ逃れた。原稿の束だけは手放さなかったとされる。モスルを経てアレッポに落ち着き、学者でもあった宰相の庇護を受けて書き続けた。草稿は1224年にいったんまとまり、1228年に清書を終えた。翌1229年、ヤークートはアレッポで死んでいる。

『諸国地名辞典(ムウジャム・アル=ブルダーン)』は、イスラーム世界とその周辺の地名を、アラビア文字の順に並べた大部の事典である。冒頭には、大地の形、気候帯の区分、距離の単位といった地理学の総論が置かれる。そのあと一つ一つの地名について、正しい綴りと読み方、名の由来、位置と距離、町の歴史、そこで生まれた学者や詩人、その土地を詠んだ詩、旅人の逸話を書き込んだ。先人の地理書の引用も多く、いまは失われた本の文章がここにだけ残っている例が少なくない。自分の目で見た土地については、見聞もはっきり書き分けている。

この辞典の価値を決定的にしたのは、完成の直後に起きたことだった。ヤークートが本を借りたメルヴは、1221年にモンゴル軍に落とされ、住民の多くが殺されたと伝えられる。ニーシャープールも、ホラズムの都も同じ年に壊された。図書館は散り、町の記録の多くは灰になった。37年後にはバグダードの陥落が来る。そのため、この辞典はモンゴル帝国の拡大の前のイスラーム世界の町々がどんな姿をしていたかを知る、最も重要な資料の一つになった。ヤークートが書き留めた町の中には、彼の本の中にしか詳しい記録の残らないものもある。

バグダードの陥落に関わる図版:Bagdad1258
バグダードの陥落Wikimedia Commons Sayf al-vâhidî et al. · Public domain

ヤークートには、文人たちの伝記を集めた『文人辞典』という著作もあり、こちらも同時代の学者の暮らしを伝える。地名辞典は19世紀にドイツの東洋学者が校訂して刊行し、それ以来、中東史の研究者が手元に置く基本の書物になっている。アル=イドリースィーの世界図や、のちのイブン・バットゥータの旅と並べると、中世のイスラーム世界が地理の知識をどれほど厚く積み上げていたかがよく分かる。

奴隷として売られた少年が、商いで世界を知り、本を写して学び、最後に世界そのものを一冊の辞書にした。そして、その世界の多くは辞書ができた直後に失われた。

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