サファヴィー朝のイスファハーン
概要
「世界の半分」と讃えられた都。シーア派がイランの国家宗教として定まり、いまに続く。
場所
32.65°N 51.67°E · イラン(サファヴィー朝の都)
関わった人(1)
アッバース1世AD1571年1月27日–AD1629年1月19日 · 当人本文
サファヴィー朝の始まりは、イラン北西部の町アルダビールの神秘主義の教団だった。14世紀の聖者サフィー・アッディーンを祖とする教団は、15世紀のあいだに、アナトリアやアゼルバイジャンのトルコ系遊牧民を信徒に集め、武装した集団に変わっていく。信徒たちは、12の襞のある赤い帽子をかぶったことから、「赤い頭(キズィルバシュ)」と呼ばれた。そしてこの教団は、イスラームの少数派であるシーア派の信仰を、熱狂的な形で掲げるようになった。
1501年、教団の若い長イスマーイールが、キズィルバシュの騎兵を率いてタブリーズを取り、シャー(王)を名乗った(サファヴィー朝)。わずか十代の半ばだったとされる。彼はその場で、シーア派の中でも12人のイマームを認める十二イマーム派を、国の宗教とすると宣言した。
当時のイランは、多数がスンナ派だった。シーア派は、預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーとその子孫だけを、共同体の正しい指導者と考える。アリーの子フサインがカルバラーの悲劇で殺された悲劇を、毎年嘆き悼む。新しい王朝は、スンナ派の学者を追放したり改宗を迫ったりし、民衆に最初の三人のカリフを呪うことまで求めた。それでも、シーア派の教えを体系的に教えられる学者がイランには足りなかった。王朝は、レバノンの山地ジャバル・アーミルなど、シーア派の学問の伝統のある土地から法学者を招き、法と儀礼を整えさせた。改宗は一代では終わらず、数世代をかけて進んだ。

西の隣国は、スンナ派の大国オスマン帝国だった。1514年、サファヴィー軍はチャルディラーンの戦いでオスマンの大砲と鉄砲の前に大敗し、一時はタブリーズを奪われる。以後、二つの帝国は、何度も戦いを繰り返した。宗派の違いは、そのまま国境の意味を持つようになった。
16世紀の終わり、王朝は内側から崩れかけていた。王位をめぐって、キズィルバシュの部族の長たちが争い、王を操った。1588年、17歳で即位したアッバース1世は、この状況を変えるところから始めた。まずオスマンに領土を譲って和を結び、時間を稼いだ。そのうえで、ジョージアやアルメニアの出身でイスラームに改宗した者たちを、王に直属する兵や官僚として取り立て、キズィルバシュの部族の力を削いだ。鉄砲や大砲の部隊を整え、ヨーロッパの冒険者の助けも借りた。準備を整えると、オスマンからタブリーズやバグダードを取り戻し、イギリス東インド会社の船の助けを借りて、ペルシア湾の入口のホルムズ島からポルトガル人を追い出した。

1598年、アッバース1世は都をカズヴィーンから、イランの中央の高原にあるイスファハーンに移した。オスマンとの国境から遠く、東西南北の交易路が交わる古いオアシスの町だった。彼はこの町を大規模に造り直した。
中心に置かれたのが、南北500メートルを超える長方形の巨大な広場、ナクシェ・ジャハーン(世界の図)だった。広場の南に王のモスク、東に王族のための小さなモスク、西に王宮の門アーリー・カープー、北に大市場の入口。一つの広場に、信仰と王権と商業が向かい合う。広場では市が開かれ、王の閲兵や祭りが行われ、ポロの試合も催された。いまも広場の両端には、ポロのゴールの石の柱が残っている。

王のモスクの壁は、青を基調とした無数の色タイルで覆われ、ドームは空に溶け込むように輝く。東の小さなモスクのドームの内側には、光の加減で色を変えるタイルの模様が広がる。郊外へは、並木と水路の続く大通りが伸び、川には何十ものアーチを連ねた橋が架けられた。町の人口は数十万に達したとされる。17世紀にこの町を訪れたヨーロッパの旅行者たちは、その華やかさを競うように書き残した。
「イスファハーンは世界の半分」という言い回しが生まれたのは、このころとされる。ペルシア語で韻を踏む言葉で、世界の半分の美しさと富がこの町にある、という意味になる。

アッバース1世は、商業にも力を入れた。イランの主な輸出品だった生糸の取引を、王室で握ろうとした。その担い手として目をつけたのが、アルメニア人の商人たちだった。1604年、オスマンとの戦いのさなかに、彼は国境に近いアルメニアの町ジュルファの住民を、焦土作戦の一環として丸ごと強制的に移住させた。移住の途中で多くが死んだ。生き残った人びとは、イスファハーンの川向こうに住まわされ、そこは新ジュルファと呼ばれた。アルメニア人の商人は、王の保護を受けながら、生糸をヨーロッパへ、インドへ運び、ロシアからインド洋にまたがる交易の網を築いた。新ジュルファにはいまもアルメニア教会の大聖堂が建ち、キリスト教徒の町並みが残っている。
アッバース1世は1629年に亡くなった。王朝はその後も100年近く続いたが、後の王たちは宮廷の奥で育ち、政治への関心が薄かった。1722年、東から攻めてきたアフガンの軍にイスファハーンが包囲され、半年の籠城の末、飢えに苦しんだ都は開城した。サファヴィー朝はまもなく実質的に滅び、やがて武将ナーディル・シャーが実権を握る(ナーディル・シャーのデリー略奪)。

それでも、サファヴィー朝が残したものは消えなかった。この王朝のもとでシーア派の国となったイランは、その後の王朝のもとでも、シーア派の国であり続けた。法学者たちの権威は時代とともに高まり、20世紀には、法学者が国を導くという考えのもとで革命が起きる(イラン革命)。いまのイランがシーア派の国であることの由来は、500年あまり前のこの王朝にある。