ダンダーナカーンの戦い

概要
セルジュークがガズナ朝を破り、ホラーサーンを取った。トルコ系の遊牧民がイランを治める時代がここから始まる。
場所
37.66°N 62.19°E · トルクメニスタン・マル州
関わった人(1)
トゥグリル・ベグAD990年頃–AD1063年 · 総指揮本文
11世紀の初め、イランの東北部ホラーサーンからアフガニスタン、インド北西部までを治めていたのは、ガズナ朝だった。トルコ系の奴隷軍人の家から興った王朝で、マフムード・ガズナウィーはインドへ十数回も遠征して寺院の財宝を持ち帰り、その富でガズナの都を飾った。宮廷には詩人や学者が集まり、フィルドゥスィーがペルシア語の叙事詩『王書』をマフムードに献じたことでも知られる。
その北、アム川の向こうの草原には、トルコ系のオグズの遊牧民がいた。そのなかの一族が、祖先セルジュークの名を取ってセルジュークと呼ばれる。彼らはイスラームを受け入れ、周りの王朝の争いに傭兵として加わりながら力を蓄えていた。

1035年ごろ、セルジュークの兄弟、トゥグリル・ベグとチャグリの率いる集団が、牧草地を求めてアム川を渡り、ガズナ朝の領内のホラーサーンに入ってきた。家畜を連れた遊牧民の群れは、町の周りの畑と村を荒らし、税の取り立てを妨げた。ガズナ朝の軍は彼らを追い払おうとしたが、勝てなかった。1038年、トゥグリルはホラーサーンの大都市ニーシャープールに入り、町の人々に迎えられて自分の名で金曜礼拝の説教を唱えさせた。
マフムードの子でガズナ朝の君主となったマスウード1世は、ついに自ら大軍を率いてホラーサーンへ向かった。重い鎧の騎兵と歩兵、そしてインドから連れてきた戦象の部隊を持つ、当時の正規軍だった。その数は5万とも言われる。迎えるセルジュークの騎兵は1万6千ほどだったとされるが、どちらの数も確かではない。

セルジュークは、正面からぶつからなかった。軽い騎兵で大軍の周りを駆け回り、矢を射かけては退き、補給の列を襲った。進む先の井戸を埋め、水場を押さえた。重い装備の大軍は、夏の乾いた土地で水を求めてさまよい、日に日に疲れていった。
1040年5月、メルヴの近くの小さな砦ダンダーナカーンのそばで、決着がついた。三日のあいだ、ガズナ軍は水の無い荒れ地で戦いを強いられた。喉の渇きに耐えかねた兵の中から、敵に寝返る者が出た。隊列が乱れたところに、セルジュークの騎兵が突撃した。ガズナ軍は崩れ、マスウードはわずかな供とともに戦場を離れ、ガズナへ逃げ帰った。

戦いのあと、その場の平原で、トゥグリル・ベグがホラーサーンの君主として推し立てられたと伝わる。セルジュークは、バグダードのアッバース朝のカリフに使いを送り、自分たちがスンナ派の信仰の守り手であることを伝えた。
ホラーサーンが、丸ごとセルジュークのものになった。敗れたマスウードは、ガズナにも留まらず、インドへ退こうとしたが、その途中で兵に背かれ、1041年に殺された。ガズナ朝はアフガニスタンとパンジャーブに押し込められ、以後はインドに向かう王朝として、12世紀の後半まで続く。
セルジュークの勢いは止まらなかった。西へ進んでイランの高原を次々に押さえ、1055年、トゥグリルはバグダードに入った。945年(ブワイフ朝のバグダード入城)以来カリフを押さえていたシーア派のブワイフ朝を退け、カリフからスルタンの称号を受けた。その甥のアルプ・アルスラーンは、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破り、アナトリアへの道を開く。宰相ニザームルムルクが、遊牧の軍事力の上にイランの官僚の伝統を据えて、帝国の仕組みを整えた。

イラン高原を、草原から来た人々の王朝が治める。その形は、ダンダーナカーンから900年近く変わらなかった。セルジュークのあと、モンゴルのイル・ハン国、ティムール朝、トルクメンの諸王朝が続き、16世紀に興ったサファヴィー朝も、トルコ系の遊牧部族の軍を力の土台にした。18世紀末に興ったカージャール朝も、トルクメンの部族の出だった。支配者は草原の出でも、宮廷の言葉と文化はペルシア語のものになり、行政はイランの官僚が担う。その組み合わせが、この戦いから始まった。