ヤルムークの戦い

概要
ヘラクレイオスの大軍が、砂嵐の日に、ハーリドの率いるアラブ軍に六日かけて崩された。皇帝は「シリアよさらば、敵にとって何とよい国か」と言って去った。ローマは700年治めたシリアを、二度と取り戻さない。
場所
32.75°N 35.95°E · ヨルダン・シリア国境
関わった人(1)
ハーリド・イブン・アル・ワリードAD592年頃–AD642年 · アラブ軍の将軍本文
636年の夏、シリア南部、ヤルムーク川がヨルダン川に流れ込む手前の台地で、ローマ帝国(東ローマ)の大軍とアラブのムスリム軍が向き合った。戦いは数日にわたり、最後にローマ軍は崩れた。この敗北で、ローマは700年近く治めてきたシリアを失い、二度と取り戻さなかった。
わずか数年前まで、ローマ皇帝ヘラクレイオスは勝者だった。7世紀の初め、ペルシアのササン朝ペルシアがシリアとエジプトを奪い、614年にはエルサレムを落として、キリストが架けられたとされる「真の十字架」を持ち去った。ヘラクレイオスは窮地から反撃に転じ、627年、ペルシアの心臓部まで攻め込んで勝った。630年3月、彼は取り戻した真の十字架を自らエルサレムに運び入れた。ローマとペルシアの四半世紀にわたる大戦争は、ローマの勝利で終わったように見えた。
しかし、二つの帝国はどちらも疲れ切っていた。シリアやエジプトの町々は長い占領で荒れ、ローマの国庫は空で、国境を守っていたアラブ人の同盟部族への手当も滞っていた。そのころアラビア半島では、ムハンマドの死(632年)のあと、初代カリフのアブー・バクルが半島の部族をまとめ直し、その矛先を北へ向けていた。
634年、ムスリム軍はシリアに入り、パレスチナのアジュナダインでローマ軍を破った。635年にはダマスクスが降った。危機を知ったヘラクレイオスはアンティオキアに本営を置き、帝国の各地から兵を集めた。総司令はアルメニア人の将軍ヴァハン、ほかに財務官のテオドロス・トリテュリオス、ブッキナトルと呼ばれる将、そしてキリスト教徒のアラブ人部族ガッサーン族を率いるジャバラ・イブン・アル・アイハムがいた。テオドロスについては、皇帝の弟で同名のテオドロスと混同されることがあるが、別人とする見方が強い。ローマ軍の兵力について、アラブ側の史料は10万とも20万とも書くが、これは大きく誇張された数字で、現代の研究者の推計は数万の間で大きく揺れている。ムスリム軍は2万から4万ほどと考えられている。どちらにせよ、ローマ軍のほうが多かった。
大軍の接近を知ったムスリム軍は、いったん占領したダマスクスやホムスを手放して南へ退き、各地に分かれていた部隊を一つにまとめた。全体の指揮はアブー・ウバイダが執り、騎兵の機動はメッカの名門出身の将軍ハーリド・イブン・アル・ワリードが受け持った。ハーリドはかつてムハンマドと戦い、のちに改宗して「神の剣」と呼ばれた男である。ほかに、ヤズィード・イブン・アビー・スフヤーン(のちのカリフムアーウィヤの兄)や、のちにエジプトを征服するアムル・イブン・アル・アースらが加わっていた。ムスリム軍は、ヤルムーク川の支流が刻む深い峡谷を背に、台地の上に陣を敷いた。
戦いの日付は、636年8月15日から20日までの6日間とする説が広く知られるが、日付も日数も史料によって違う。アラブ側の年代記は、物語として伝えられた場面を数多く残している。最初の数日はローマ軍が押し、ムスリム軍の両翼は何度も崩れて陣地まで追い返された。陣地にいた女たちが、逃げてくる男たちを棒や石で打って戦場へ追い返した、と伝えられる。のちのカリフの母ヒンドもその一人だったという。
決着の日には、南から砂嵐が吹き、ローマ兵の顔に砂が吹きつけたと伝えられる。ハーリドの騎兵はローマ軍の騎兵と歩兵の間に割って入り、騎兵を戦場から追い払った。孤立したローマの歩兵は、退路の側にある峡谷へと押し込まれ、多くが断崖から落ち、あるいは川に沈んだ。ヴァハンの消息は諸説あるが、テオドロスもブッキナトルも戦死したとされる。ローマ軍の中では、アルメニア人とアラブ人の部隊の間に不和があり、戦いの最中にヴァハンを皇帝に推す動きがあったとする記録もある。
敗北の知らせを聞いたヘラクレイオスは、アンティオキアを出てコンスタンティノープルへ戻った。シリアを去るとき、彼は振り返って「さらば、シリア。敵にとって、なんとよい国か」と言ったと、9世紀のアラブの歴史家バラーズリーは伝えている。
それからは早かった。ムスリム軍はダマスクスを再び取り、北のアンティオキアやアレッポも数年のうちに降った。エルサレムは長い包囲ののち、637年か638年に、総主教ソフロニオスがカリフのウマル本人に町を引き渡した。アムルの軍はエジプトに入り、641年から642年にかけて、ローマ第二の都市アレクサンドリアが降伏した。前64年にポンペイウスがシリアを属州にし、翌年にはポンペイウスのエルサレム占領もあった。それ以来のローマの東方は、10年足らずで失われた。
同じ636年前後には、イラクでもカーディシーヤの戦いがあり、ペルシア軍が大敗している。ペルシアは642年のニハーヴァンドの戦いでも敗れ、ササン朝はやがて滅んだ。ローマは、首都とアナトリアの山々、そして海を守って生き延びた。ここからの東ローマは、ギリシア語を話し、小アジアを本土とする、小さく固い国になっていく。

ムスリム軍は新しい武器を持っていたわけではない。ローマとペルシアが互いを消耗させた直後に、統一されたばかりの勢いのある軍が現れた。時の巡り合わせが、帝国の地図を書き換えた。シリアの都ダマスクスは、四半世紀後、ウマイヤ朝の成立によってカリフの都になる。
ヤルムークの戦いの細部は、ほとんどがアラブ側の後世の伝承に頼っている。ローマ側の記録は短く、戦いの日付、兵の数、指揮官の名前や運命まで、確かなことは多くない。ハーリドがこの時点で全軍の司令官だったのか、カリフのウマルにすでに解任されてアブー・ウバイダの下にいたのかも、史料によって食い違う。確かなのは、この夏を境に、地中海の東岸がローマの手を離れたことである。