レパントの海戦

概要
オスマンの無敵の評判が地中海で崩れた。ただし帝国そのものはこの後も長く続く。
場所
38.38°N 21.42°E · ギリシア沖
関わった人(1)
フェリペ2世AD1527年5月21日–AD1598年9月13日 · スペイン王本文
16世紀の地中海は、オスマン帝国の海だった。スレイマン1世(スレイマン1世)の時代、オスマンの艦隊は北アフリカの港を押さえ、1538年のプレヴェザの海戦ではヴェネツィアとスペインなどの連合艦隊を退けた。1565年のマルタ島の包囲こそ失敗したが、東地中海の島々は次々にオスマンの手に落ちていた。キリスト教国の側には、海の上でオスマンに勝てないという思いが広がっていた。
1570年、スレイマンの子セリム2世は、ヴェネツィア領のキプロス島に兵を送った。首都ニコシアは9月に落ち、東岸のファマグスタは1年近く持ちこたえたが、1571年8月に降伏した。降伏の条件は守られず、守備隊の指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれ、生きたまま皮を剥がれたと伝えられる。

キプロスの危機に、ローマ教皇ピウス5世が動いた。1571年5月、教皇の呼びかけで、スペイン、ヴェネツィア、教皇領に、ジェノヴァやサヴォイア、マルタ騎士団などが加わった神聖同盟が結ばれた。スペイン王フェリペ2世は費用の大きな部分を負担し、異母弟で24歳のドン・フアン・デ・アウストリアを総司令官に据えた。スペインとヴェネツィアは利害が食い違い、互いを信用していなかったが、教皇の仲立ちでかろうじてまとまった。
10月7日の朝、両軍はギリシア西岸、パトラス湾の入口で出会った。オスマンの艦隊は、その奥の港レパント(いまのナフパクトス)を拠点にしていた。神聖同盟の側はガレー船200隻あまりと、大砲を多く積んだ大型のガレアス船6隻。オスマンの側はガレー船とより小型の船を合わせて300隻近くで、提督のアリ・パシャが率いた。ガレー船は数百人の漕ぎ手が櫂で漕ぐ軍船で、漕ぎ手の多くは奴隷や囚人だった。兵と漕ぎ手を合わせ、両軍で十数万人が戦いに加わったとされる。

戦いは昼前に始まり、数時間で決着した。前に押し出されたヴェネツィアのガレアス船が砲撃でオスマンの隊列を崩し、中央では旗艦どうしがぶつかって、甲板の上で白兵戦になった。アリ・パシャは討たれ、その首は槍の先に掲げられた。神聖同盟の側の火縄銃兵の多さも勝因に挙げられる。オスマンの艦隊は、沖側の翼を率いたウルチ・アリが数十隻を連れて逃れたほかは、ほとんどが沈められるか奪われた。オスマンの死者は2万から3万、神聖同盟の側も7000から8000が死んだと推定される。オスマンの船で漕がされていたキリスト教徒の奴隷、1万人ほどが解き放たれた。
ヨーロッパでは盛大に祝われた。教会の鐘が鳴らされ、ヴェネツィアやローマでは祝いの行列が続き、画家たちは勝利の絵を描いた。教皇は10月7日を勝利の聖母の祝日と定め、これはのちにロザリオの聖母の祝日になった。オスマンは海の上でも無敵ではない、ということが示されたためである。

ただし、戦略上の影響は限られていた。オスマンは翌年の春までに200隻を超える艦隊を作り直し、ウルチ・アリがそれを率いて再び海に出た。神聖同盟はまとまりを欠き、1573年、ヴェネツィアは単独でオスマンと講和を結び、キプロスを正式に譲ったうえ、賠償金まで払った。1574年には、スペインが押さえていたチュニスもオスマンに奪い返された。
講和の交渉の中で、オスマンの大宰相ソコルル・メフメト・パシャはヴェネツィアの使節にこう語ったと伝えられる。われらはキプロスを奪ってそなたらの腕を切り落としたが、そなたらはわれらの艦隊を破って髭を剃ったにすぎない。腕は再び生えないが、剃られた髭はかえって濃く生えてくる、と。この時期、セリム2世はエディルネに壮麗なモスクを建てさせている(セリミエ・モスクの完成)。

レパントは、櫂で漕ぐガレー船どうしが主役になった最後の大海戦とされる。この後、地中海でも大西洋でも、帆で走り舷側に大砲を並べた帆船が海戦の主役になっていく。オスマン帝国はその後も長く続き、地中海での大きな海戦は互いに避けるようになった。
神聖同盟の兵の中に、24歳のスペイン人ミゲル・デ・セルバンテスがいた(ミゲル・デ・セルバンテス)。熱を出していたが甲板に出て戦い、胸に2発、左手に1発の銃弾を受けた。左手は生涯動かなくなった。のちに彼は、右手の栄光のために左手の動きを失ったと書き、この戦いを過去にも未来にも見ることのない最も気高い機会と誇った。帰国の途中で海賊に捕らえられ、アルジェで5年間捕虜として過ごした彼が『ドン・キホーテ』を出すのは、レパントから34年後の1605年である。