できごと

第二次ウィーン包囲

Second Siege of Vienna
AD1683年
重要度 4
第二次ウィーン包囲に関わる図版:Anonym Entsatz Wien 1683
Anonym Entsatz Wien 1683 Wikimedia Commons Anonymer, zeitgenössischer Maler · Public domain

概要

オスマンの前進がここで止まった。以後この帝国は退く側に回り、ヨーロッパの力関係が入れ替わる。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

本文

16世紀、オスマン帝国はヨーロッパに向かって前進し続けていた。1526年、スレイマン1世はモハーチでハンガリーの王を破り(モハーチの戦い)、ハンガリーの大部分を手に入れた。1529年にはハプスブルク家の拠点ウィーンを囲んだが、冬が迫って引き返した(第一次ウィーン包囲)。それから150年あまり、ハンガリーはオスマンとハプスブルクとトランシルヴァニアの三つに分かれ、両帝国の国境では小さな戦いが続いていた。

17世紀の後半、オスマン帝国は、有能な大宰相を出したキョプリュリュ家のもとで力を取り戻していた。その一族の大宰相カラ・ムスタファは、ハプスブルク家の支配に背いたハンガリーのプロテスタントの貴族たちの助けを求める声を受けて、大軍を西へ進めた。目指したのは、150年前にスレイマンが落とせなかったウィーンだった。軍は10万を超えたとされる。神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、都を捨てて西へ逃れた。

ウィーンの戦い(1683年)を描いた図
ウィーンの戦い(1683年)を描いた図Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

1683年7月、オスマン軍はウィーンを囲んだ。城内に残ったのは、シュターレンベルク伯の率いる1万あまりの兵と、武器を取った市民たちだった。オスマン軍は城壁の下にトンネルを掘り、火薬で城壁を崩そうとした。守る側も地下に穴を掘って迎え撃った。包囲は2か月に及び、城内では食べ物が乏しくなり、赤痢が広がった。9月の初めには、城壁の一部が崩れ、町はいつ落ちてもおかしくない状態になっていた。

その間に、援軍が集まっていた。ローマ教皇の呼びかけで、ヨーロッパの諸侯が兵を出した。ザクセンやバイエルンなどドイツの諸侯の軍、皇帝の軍を率いるロレーヌ公、そしてポーランド王ヤン3世ソビエスキの軍である。ポーランドはこの年の春、皇帝と同盟を結んだばかりだった。全体の指揮はソビエスキがとった。

「ウィーンのソビエスキ」(ユリウシュ・コサック画)
「ウィーンのソビエスキ」(ユリウシュ・コサック画)Wikimedia Commons Juliusz Kossak · Public domain

1683年9月12日、援軍はウィーンの北西にあるカーレンベルクの丘から攻め下った。戦いは朝から一日続いた。夕方近く、ソビエスキは騎兵に総突撃を命じた。背中に鳥の羽根の飾りを付けたポーランドの重騎兵、フサリアを先頭に、2万近い騎兵が丘を駆け下り、オスマン軍の陣地へなだれ込んだ。歴史上でも最大級の騎兵の突撃とされる。オスマン軍は崩れ、大宰相の陣営も捨てて逃げた。包囲は解かれた。

ソビエスキは教皇に、我らは来た、見た、神が勝った、という意味の言葉を送ったと伝えられる。オスマン軍が残していった陣営からは、大量の武器や天幕、財宝が見つかった。ウィーンのコーヒー店は、このとき残されたコーヒー豆から始まったという話や、三日月の形のパンがこの勝利を祝って作られたという話がある。どちらも後の時代の言い伝えで、確かな根拠は無い。

反ハプスブルクのクルツ軍とハプスブルク王党派との小競り合い
反ハプスブルクのクルツ軍とハプスブルク王党派との小競り合いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

敗れたカラ・ムスタファは、その年の暮れ、スルタンの命令でベオグラードで処刑された。翌1684年、教皇の呼びかけで、ハプスブルク家、ポーランド、ヴェネツィアが神聖同盟を結び、のちにロシアも加わって、オスマン帝国に反撃を始めた。1686年には、140年あまりオスマンの支配下にあったハンガリーの中心ブダが奪い返された。

戦争は16年続いた。1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれ、オスマン帝国はハンガリーとトランシルヴァニアの大部分をハプスブルク家に、ポーランドやヴェネツィアにもそれぞれ土地を譲った。オスマン帝国が戦争に負けて、大きな領土を正式に手放した最初の条約だった。

カルロヴィッツ条約に関わる図版:Treaty of Karlowitz
カルロヴィッツ条約Wikimedia Commons O.Mustafin · CC0

1299年に始まったオスマン帝国は(オスマン帝国の始まり)、それまでの数世紀、ほぼ一貫して前進する側にいた。ウィーンの城壁の前で、その前進は止まった。この後、帝国は少しずつ領土を失い、19世紀には「ヨーロッパの病人」と呼ばれるようになる。代わって東へ広がったのが、ハプスブルク家のオーストリアだった。ドナウ川の流域を手に入れたオーストリアは、ヨーロッパの大国としての地位を固めた(マリア・テレジア)。

ヨーロッパでは、この勝利はキリスト教世界をイスラームから守った戦いとして語り継がれてきた。カーレンベルクの丘には、ソビエスキを記念する教会が建つ。一方で、この戦いの記憶は、現代のヨーロッパで移民や宗教をめぐる主張の中に持ち出されることもある。17世紀の戦いが、いまも政治の言葉として生きている。

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