『インド誌』

概要
征服する側に随行した学者が、サンスクリットを学んでインドの学問と信仰を書いた。相手の言い分をその言葉で読んでから書いている。
場所
33.55°N 68.42°E · アフガニスタン
関わった人(1)
アル=ビールーニーAD973年–AD1048年 · 著者本文
アル=ビールーニーは973年、中央アジアのアム川下流、ホラズムの地に生まれた。若いころから天文学と数学に打ち込み、各地の宮廷を渡り歩きながら、暦や天体観測について書いた。母語はホラズム語というイラン系の言葉で、学問はアラビア語で書いた。
1017年、アフガニスタンのガズナを都とするマフムード・ガズナウィーがホラズムを征服した。ビールーニーは、ほかの学者たちとともにガズナへ連れて行かれる。招かれたというより、戦利品として運ばれたに近い。以後、彼はマフムードの宮廷に仕え、その遠征に随行して北西インドのパンジャーブに長く滞在した。

マフムードは、生涯に十数回インドへ攻め込んだ。目当ては寺院の財宝で、1026年には西インドのソムナートの大寺院を略奪している(ソムナート寺院の略奪)。征服者の宮廷にいたビールーニーは、この遠征について珍しく冷ややかな言葉を残した。マフムードは国の繁栄をすっかり壊し、ヒンドゥーの人びとは塵のように四方に散らされた、と書いている。そして、その憎しみのために、ヒンドゥーの学問がムスリムの手の届かない遠い土地へ逃げてしまった、とも嘆いた。
彼はインドで、サンスクリットを学んだ。数年がかりだったと見られる。文法が複雑で、同じものに多くの名があり、一つの語が多くのものを指す。学者たちは知識を外の者に教えたがらない。写本は書き写されるたびに誤りが増えている。そうした難しさを、彼は本の中で一つずつ挙げている。それでも学者たちと議論し、やがて彼がギリシア以来の学問の基礎を説いてみせると、インドの学者たちは驚き、彼を魔術師のように見た、と自分で書いている。

1030年ごろ、その成果をまとめたのが『インド誌』だった。正式な題は長く、「インド人の言うことを、理にかなうものも、かなわないものも、確かめる書」といった意味になる。80の章で、神の観念、魂と輪廻、聖典、文字と言葉、度量衡、地理、暦、天文、占星術、祭り、婚姻、法、そしてカーストを、順を追って記述している。
書き出しで、自分の方法を述べた。これは論争の書ではない。相手を打ち負かすために書くのではなく、ヒンドゥーが自分たちで言っていることを、そのまま伝えるために書く。だから彼は、インドの聖典を自分で訳して引いた。『バガヴァッド・ギーター』や、ヨーガの教えの書、プラーナ文献から、長い文章をそのまま示す。ウパニシャッド(ウパニシャッドの成立)以来の哲学についても、その言葉で説明している。

そのうえで、自分が同意しない点は、はっきりと分けて書いた。紹介と批判を混ぜない。天文学では、インドの学者たちの計算の確かさを認めながら(『アーリヤバティーヤ』やブラーマグプタのゼロの系統の仕事を、彼は詳しく読んでいた)、暦の計算に神話がまぎれ込んでいる点を指摘した。比べる相手はインドだけではない。インドの学者の迷信を挙げたあとで、ギリシアの古い時代にも同じような考えがあったと並べ、どの民も学問の浅い者は似たような誤りに陥るのだ、と書いている。
同時に、インドの人びとが外の世界を知ろうとしないことも批判した。彼らは、自分たちの国以外に国は無く、自分たちの民のような民は無く、自分たちの学問以外に学問は無いと思っている、と。ただし彼はすぐに続けて、彼らの祖先はそれほど狭い心ではなかった、とも書いている。批判にも、一方的な決めつけを避けようとする手つきがある。
インドにいる間、彼は地球の大きさも測った。平原のそばの山に登り、遠くの地平線が水平からどれだけ沈んで見えるかを測って、そこから地球の半径を計算している。バグダードの知恵の館の時代の測量が平原を歩いて距離を測ったのに対し、一つの山の上で済む方法だった。

マフムードは本が完成したころに死んだ。ビールーニーはその後も天文学の大著を書き、1048年ごろまで生きたとされる。『インド誌』は長くイスラーム世界の中でも読まれることが少なかった。19世紀の終わり、ドイツの学者がこれを英語に訳して出版し、11世紀のインドを知るための第一級の史料として知られるようになった。
征服する側に立ちながら、相手の言葉を学び、相手の言い分をその言葉で読んでから書く。その態度ゆえに、彼はしばしば最初の人類学者、あるいは比較宗教学の先駆けと呼ばれる。征服の随員が書いた本が、その土地について書かれた最も丁寧な記述になった。