人物

ムハンマド

Muhammad
AD570年頃 – AD632年(享年62・推定)
イスラム共同体重要度 5

概要

メッカの商人から預言者となり、信仰と政治が一体の共同体を築いた。その死から一世紀で版図はイベリアからインダスに届く。

関わったできごと(4)

ヒジュラ(聖遷)AD622年 · 当人アザーンAD7世紀前半 · 鐘でも角笛でもなく声と定めたウフドの戦いAD625年3月 · 負傷メッカの征服AD630年1月 · 入った

本文

570年頃、アラビア半島西部の商業都市メッカに生まれた。生年には567年から573年まで幅がある。メッカの有力部族クライシュのうち、ハーシム家の出だった。父アブドゥッラーは生まれる前に死に、母アーミナも6歳ほどのときに亡くした。祖父に引き取られ、祖父が死ぬと叔父のアブー・ターリブに育てられた。

天使ジブリール(جبريل)から啓示を受けるムハンマド(14世紀,エディンバラ大学所蔵『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画)
天使ジブリール(جبريل)から啓示を受けるムハンマド(14世紀,エディンバラ大学所蔵『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画)Wikimedia Commons Rashid-al-Din Hamadani · Public domain

この時代のメッカは、砂漠の交易路の結び目だった。南のイエメンと北のシリアを結ぶ隊商が行き交い、町の中心には多くの神々の像を祀る立方体の聖殿カアバがあった。カアバへの巡礼と市は、町に大きな富をもたらしていた。一方で、富む者と貧しい者の差は広がり、部族の結びつきで守られない孤児や寡婦は取り残されがちだった。

若い頃は叔父の隊商に加わってシリアへ行き、のちには商人として働いた。正直さから「信頼できる人」と呼ばれたと伝えられる。25歳の頃、雇い主だった裕福な寡婦ハディージャと結婚した。彼女は年上で、伝承では40歳とされる。ハディージャが生きている間、ほかに妻を持たなかった。

マッカを巡礼するムハンマド一行
マッカを巡礼するムハンマド一行Wikimedia Commons Nakkaş Osman · Public domain

ハディージャの死後は、複数の妻を迎えている。その中には盟友アブー・バクルの娘アーイシャのように同盟の絆となった結婚も、戦いで夫を失った寡婦との結婚もあった。暮らしぶりは質素で、自分で衣を繕い、山羊の乳を搾ったと伝えられる。偶像を拒んだ教えから、その姿を絵に描くことは避けられてきた。

40歳の頃、メッカ郊外のヒラー山の洞窟にこもって瞑想していたとき、天使ジブリールが現れ、「読め」と命じたと伝えられる。610年頃とされる。最初は恐れおののき、妻に打ち明けた。ハディージャは夫を信じ、最初の信者になった。続いて従弟のアリー、友人のアブー・バクルらが加わる。

イブン・ヒシャームの伝記『預言者の生涯』の初期写本
イブン・ヒシャームの伝記『預言者の生涯』の初期写本Wikimedia Commons Unknown scribe. · Public domain

説いたのは唯一神への帰依と、孤児や貧者への施し、そして最後の審判だった。神の前では部族も富も意味を持たない、という教えは、弱い立場の人々を引きつけた。啓示の言葉はのちにまとめられ、聖典クルアーンになる。

メッカの有力者が反発したのは、神々を祀るカアバへの巡礼が町の収入源だったことも大きい。信者たちは嘲られ、奴隷の身分の者は拷問を受けた。615年頃には、一部の信者が紅海を渡ってアビシニアのキリスト教徒の王のもとへ逃れている。619年頃、妻ハディージャと、部族の中で彼をかばってきた叔父アブー・ターリブが相次いで死んだ。この年は「悲しみの年」と呼ばれる。

マーリク・イブン・アナスの生前に書かれた『ムワッタア』の初期写本
マーリク・イブン・アナスの生前に書かれた『ムワッタア』の初期写本Wikimedia Commons Unknown scribe. · Public domain

622年、北のオアシスの町ヤスリブの人々に招かれ、信者とともに移った。この移住をヒジュラ(聖遷)と呼び、のちにこの年がイスラームの暦の元年と定められる。町はやがて「預言者の町」、メディナと呼ばれるようになった。

メディナで、ムハンマドは対立する部族の調停者として迎えられた。信者だけでなく、ユダヤ教徒の部族も含めた町の住民の約束事を定めた文書が残っている。宗教の指導者であると同時に、裁定者であり、軍の指揮者であり、立法者だった。この一体が、後のイスラーム国家の型になる。礼拝の方角は、はじめエルサレムだったが、624年頃にメッカのカアバへ改められた。

ムハンマドの誕生を描いた『預言者の生涯』の挿絵
ムハンマドの誕生を描いた『預言者の生涯』の挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

メッカとの戦いが始まった。624年のバドルの戦いでは、300人余りの信者が、その3倍ほどのメッカ軍を破った。翌年のウフドの戦いでは敗れ、自身も傷を負っている。627年にはメディナを包囲したメッカの大軍を、町の周りに塹壕を掘って退けた。この過程で、メッカと通じたとされたユダヤ教徒の部族を追放し、ある部族の男たちを処刑したことも伝えられている。

628年、メッカと休戦の協定を結び、翌年には巡礼を許された。協定が破られると、630年、1万の軍を率いてメッカに入った。メッカの征服はほとんど血を流さずに終わり、カアバの神像は壊されたが、かつて自分を迫害した人々の多くは許された。アラビアの諸部族が次々に使節を送り、帰順した。

メッカの征服に関わる図版:Paris, BnF, Supplément Persan 1030 fol. 305v-306r Muhammad and Ali lead destruction of Meccan idols
メッカの征服Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

632年、メッカへの最後の巡礼を行い、そこで信者たちに説教をした。メディナに戻って間もなく病に倒れ、6月、妻アーイシャの部屋で死んだ。60代の初めだった。遺体はその部屋に葬られ、いまの預言者のモスクの中にある。

男子は皆幼くして死に、成人した子は娘たちだけだった。そのため、死後、共同体の指導者を誰にするかで見解が分かれた。血統を重んじる側は、娘ファーティマの夫で従弟のアリーを推し、共同体の合意を重んじる側は、長老のアブー・バクルを選んだ。アブー・バクルが初代のカリフとなり、カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)の時代が始まる。シーアとスンナの分かれ目は、この最初の継承問題にさかのぼる。

若きムハンマドが修道士バヒーラーに会う場面(『集史』、1315年頃)
若きムハンマドが修道士バヒーラーに会う場面(『集史』、1315年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

生涯を伝える伝記は、死後100年以上たってからまとめられたもので、伝承の積み重ねでできている。どこまでが史実かは、研究者の間でも議論がある。それでも、メッカの一商人の言葉から始まった共同体が、その死から一世紀でイベリアからインダスに届いたことは確かである。ウマイヤ朝の成立の頃には、もう大帝国になっていた。いま世界で20億近い人が、彼を最後の預言者として敬っている。

動画(1)

砂漠を駆ける激アツ!教祖・ムハンマド【COTEN RADIO #35】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOメッカの商人社会でなぜ新しい教えが必要とされたのかから入る
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD570年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →