第一次パーニーパットの戦い

概要
バーブルが火砲を使ってデリーの軍を破った。ムガル帝国が始まる。
場所
29.39°N 76.96°E · インド・ハリヤーナー州
本文
バーブルは1483年、中央アジアのフェルガナ盆地に、ティムール朝の小さな君主の子として生まれた。父方はティムールの5代あとの子孫、母方はチンギス・ハンの血を引く。11歳で父を亡くして位を継ぎ、祖先の都サマルカンドを三度手に入れては三度失った。北から来たウズベクのシャイバーニー・ハンに追われ、1504年にアフガニスタンのカーブルを奪って拠点にした。中央アジアに戻れないと分かったとき、目を南のインドへ向けた。
その頃の北インドは、デリー・スルタン朝の成立の最後の王朝であるローディー朝が治めていた。スルタンのイブラーヒーム・ローディーは、アフガン系の有力者たちを押さえつけようとして反発を買っていた。パンジャーブの総督ダウラト・ハーン・ローディーは、バーブルを呼び込んで主君を倒そうとした。バーブルは何度か小規模な遠征を重ねたのち、1525年の暮れに本格的にインドへ入った。

1526年4月、両軍はデリーの北約90キロのパーニーパットで向き合った。バーブルの兵力ははっきりしないが、1万数千ほどと考えられている。自伝によれば、相手は10万の兵と1000頭の象を持っていた。この数は誇張を含むとみられるが、兵の数で大きく劣っていたことは確かである。
バーブルは陣の前に700台ほどの荷車を並べ、生皮の綱でつないで壁にした。荷車の間には盾を立て、その隙間から大砲と火縄銃を撃てるようにした。オスマン帝国の戦い方にならったもので、バーブルはこれを「ルーミー(ローマ風、つまりオスマン風)」の方式と書いている。砲手にはウスタード・アリー・クリーという名が残る。陣の両端には騎兵を置き、敵が正面にかかると左右から回り込んで背後を突かせた。草原の遊牧民が昔から使ってきた包囲の戦法である。
4月21日の朝、ローディー軍が攻めかかった。正面の荷車の壁で足が止まったところへ、砲と矢が浴びせられ、側面と背後から騎兵が締め上げた。密集した大軍は身動きが取れなくなった。砲声に驚いた象が暴れたとも伝わる。戦いは昼ごろには終わり、イブラーヒーム・ローディーは戦場で死んだ。バーブルはそのままデリーとアグラに入った。
勝ったあとにも難題があった。インドの夏の暑さに参った将兵の多くは、奪った財宝を手にカーブルへ帰りたがった。バーブルは彼らを集め、何年もかけて手に入れた国を捨てて帰るのか、と説いて引き留めたと自伝に書いている。それでも帰りたい者は帰らせ、残った者に財宝を分け与えた。
これをもってムガル帝国の成立が始まる。ただし、パーニーパットの勝利で北インドが手に入ったわけではない。翌1527年、バーブルはラージプートの諸侯を束ねたメーワールのラーナー・サーンガーとハーヌワで戦い、ここでも荷車と砲の陣で勝った。こちらのほうが手ごわい戦いだったとする研究者も多い。バーブルは1530年に死に、子のフマーユーンは一度インドを追われる。帝国が根を下ろすのは孫のアクバルの時代で、アクバルが即位した1556年にも、同じパーニーパットで戦いが起きている。
同じ1526年の8月には、遠いハンガリーで、オスマン軍の砲が騎兵の突撃を止めた(モハーチの戦い)。火砲を組み込んだ戦い方が、ユーラシアの東西で騎兵の時代を変えつつあった。ただ、パーニーパットでの勝因を砲だけに求めるのは行き過ぎで、騎兵による包囲と、敵の内部の分裂も大きかったとされる。

バーブルは、チャガタイ・トルコ語で自伝『バーブル・ナーマ』を書いた。戦いや政治だけでなく、見た鳥や花、飲んだ酒、後悔まで率直に書いている。インドについては、よい馬も、ぶどうも、メロンも、氷も、冷たい水も、浴場もない、と不満を並べた。一方で、インドの動植物を細かく観察して書き残しており、庭園を造らせることに熱心だった。遺言により、遺体はのちにカーブルの庭園に葬られた。征服者が自分の言葉で心の内まで書いた記録として、イスラーム世界の自伝のなかでも珍しいものとされる。