人物

シャジャル・アッ=ドゥッル

Shajar al-Durr
? – AD1257年
マムルーク朝重要度 3

概要

奴隷から王妃になり、夫の死を隠して十字軍を退け、自らスルタンとして即位した。イスラム世界で数少ない女性の君主。

所属

マムルーク朝

関わったできごと(1)

シャジャル・アッ=ドゥッルの即位AD1250年 · 即位

本文

シャジャル・アッ=ドゥッルという名は、アラビア語で「真珠の木」を意味する。生まれた年も、生まれた土地も分かっていない。トルコ系とも、アルメニア系ともいわれる。確かなのは、奴隷として売られ、エジプトとシリアを治めるアイユーブ朝の王子サーリフ・アイユーブに買われたことである(アイユーブ朝)。アイユーブ朝は、十字軍からエルサレムを取り戻したサラディンが開いた王朝で、サーリフはその一族だった。

シャジャル・アッ=ドゥッルの治世の金貨
シャジャル・アッ=ドゥッルの治世の金貨Wikimedia Commons Stanley Lane Poole · Public domain

彼女は側室としてサーリフに仕え、男の子を産んだが、その子は幼くして死んだ。サーリフが王族の争いの中で敵に捕らえられ、幽閉されていた時期にもそばを離れなかったとされる。1240年、サーリフがエジプトのスルタンになると、彼女はやがて正式な妻に迎えられ、宮廷で重きをなすようになった。サーリフは、トルコ系の奴隷を買い集めて自分の親衛軍を作った。ナイル川の中州に兵舎を置いたことから、彼らはバフリー(川の)・マムルークと呼ばれた。マムルークとは、奴隷の身分から兵士として育てられた者たちのことである。

1249年6月、フランス王ルイ9世の率いる十字軍が、ナイル川の河口の港町ダミエッタに上陸した(第七回十字軍(ダミエッタ))。ダミエッタは戦わずに落ちた。そのときスルタンのサーリフは重い病に冒されていた。十字軍がナイル川をさかのぼって内陸へ進もうとする最中の11月、サーリフはマンスーラの陣中で死んだ。

第七回十字軍(ダミエッタ)に関わる図版:Seventh crusade
第七回十字軍(ダミエッタ)Wikimedia Commons Guillaume de Saint-Pathus, Vie et miracles de Saint Louis · Public domain

敵が目の前にいるときに、スルタンの死が知れ渡れば、軍は崩れ、エジプトは一気に奪われかねない。シャジャル・アッ=ドゥッルは、夫の死を隠すことを決めた。知らせたのは、軍の総司令官と宮廷の宦官の長の二人だけだった。スルタンの天幕には、これまでどおり医者が出入りし、食事が運び込まれた。命令書は、スルタンの名で出され続けた。スルタンの署名は、筆跡をまねられる者が書いたと伝えられる。その間に、彼女はメソポタミアの北にいたサーリフの息子トゥーラーン・シャー(彼女の子ではない)に使者を送り、急いで戻るよう求めた。

1250年2月、十字軍の先鋒がマンスーラの町に突入した。マムルークの将たちは、わざと町の中に敵を引き込み、狭い路地で取り囲んで打ち破った。その中にのちのスルタン、バイバルスもいた。疫病と飢えに苦しんだ十字軍は退こうとしたが、4月、追撃を受けて壊滅し、ルイ9世自身が捕虜になった。

シャジャル・アッ=ドゥッルを描いた1966年のスケッチ
シャジャル・アッ=ドゥッルを描いた1966年のスケッチWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ところが、到着したトゥーラーン・シャーは、父の古い家臣たちやマムルークを遠ざけ、自分の側近を重く用いた。父の死を隠してまで国を守ったシャジャル・アッ=ドゥッルにも、財産を差し出せと迫ったという。5月、マムルークたちはトゥーラーン・シャーを襲って殺した。

その後、マムルークの将たちが新しい君主に推したのは、シャジャル・アッ=ドゥッルだった。彼女はスルタンとして即位した。金曜の礼拝の説教で君主の名として彼女の名が読み上げられ、貨幣には彼女の称号が刻まれた。イスラーム世界で、女性がこのように正式に君主の座についた例は、ほとんど無い。捕虜のルイ9世との交渉もまとめ、ダミエッタの返還と多額の身代金と引き換えに、王を解放した。

だが、周りは女性の君主を認めなかった。シリアのアイユーブ家の王族たちは、エジプトの新しい政権を認めず、兵を挙げた。バグダードのアッバース朝のカリフは、もしエジプトに男がいないのなら、こちらから一人送ってやろう、と書き送ったと伝えられる。カリフの承認を欠けば、君主としての正統性は揺らぐ。

即位から3か月ほどで、彼女はマムルークの将アイバクと結婚し、位を彼に譲った。アイバクがスルタンとなり、マムルーク朝が始まる。だが実際の政治は、その後も彼女が大きく動かしたといわれる。アイバクには前の妻がいたが、シャジャル・アッ=ドゥッルは彼にその妻と別れるよう求めた。

7年後の1257年、アイバクが、北のモスルの君主の娘を新たな妻に迎えようとしているという話が伝わった。4月、アイバクは宮殿の浴場で殺された。シャジャル・アッ=ドゥッルの命令によるものだった。だが、アイバクの配下のマムルークたちはこれを許さなかった。彼女は捕らえられ、アイバクの前の妻のもとに引き渡された。数日後、前の妻の侍女たちが、彼女を木の履物で打ち殺したと伝えられる。遺体は城の外の堀に投げ捨てられ、のちに拾われて、彼女が生前に建てていた墓廟に葬られた。

その墓廟は、いまもカイロの町の南に残っている。礼拝の方向を示す壁のくぼみには、ガラスと貝のモザイクで、実をつけた木が描かれている。その名の「真珠の木」にちなむものとみられる。彼女の死の3年後、マムルーク朝の軍はシリアのアイン・ジャールートでモンゴル軍を破った(アイン・ジャールートの戦い)。女性であり、元奴隷であり、外国の出であったシャジャル・アッ=ドゥッルは、奴隷出身の軍人たちが250年以上エジプトを治めるマムルーク朝の、最初の君主に数えられることもある。

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