イブン・ジュバイルの巡礼記
概要
十字軍の只中を通った巡礼の記録。敵味方に分かれた土地で、商人も農民も普通に行き来していたことが書かれている。
場所
21.42°N 39.83°E · サウジアラビア
関わった人(1)
イブン・ジュバイルAD1145年–AD1217年 · 著者本文
イブン・ジュバイルは1145年、イベリア半島東部のバレンシアに生まれ、グラナダでムワッヒド朝の総督の書記を務めていた。巡礼に出たきっかけについては、こんな話が伝わる。ある日、総督が戯れに彼に葡萄酒を無理に飲ませ、あとで悔やんで金貨を杯に満たして与えた。イブン・ジュバイルはその金を、自分の罪を清めるためのメッカ巡礼の費用に充てた、という。後世の伝記に見える話で、どこまで本当かは分からない。
1183年2月、彼はグラナダを発った。ジブラルタル海峡を渡り、北アフリカのセウタからジェノヴァ人の船に乗って地中海を東へ向かった。ムスリムの巡礼者がキリスト教徒の船で旅をするのは、この時代には珍しくなかった。30日ほどの船旅でアレクサンドリアに着くと、まず税関で手荒に扱われた。荷物を一つ残らず開けられ、懐まで探られたことへの怒りを、彼は書きとめている。
エジプトを治めていたのはサラディンだった。イブン・ジュバイルは、サラディンが巡礼者から取り立てていた税を廃し、学者や旅人のために学院や宿や病院を建てたことを大いに讃えた。ナイル川を船で遡り、上エジプトから砂漠を隊商で横切って、紅海の港アイザーブに出た。そこから小さな縫い合わせの船で紅海を渡ってジッダに上陸し、8月にメッカに着いた。紅海の船の粗末さ、港の役人や地元の有力者が巡礼者から金を巻き上げる様子にも、彼は遠慮なく筆を向けている。
メッカには8か月ほど滞在した。カアバ神殿の様子、巡礼の儀式、各地から集まった人々の姿、市場に並ぶ品物と値段、月ごとの行事を、日付を追って細かく書いた。それからメディナを訪れ、イラクの砂漠を横切ってバグダードへ、さらにモースル、アレッポ、ダマスカスへと北上した。アッバース朝のカリフが住むバグダードについては、名高い都も、いまは昔の栄えの影にすぎない、という醒めた感想を残している。

1184年の秋、彼はダマスカスから、十字軍国家であるエルサレム王国の港町アッコンへ向かった。この部分が、後世もっともよく読まれる。サラディンとフランク人(十字軍)は戦いの最中にあったが、ダマスカスとアッコンのあいだを、ムスリムの隊商もキリスト教徒の商人も途切れることなく行き来していた。戦うのは兵士で、民と商人は平穏に暮らしている、と彼は驚きをもって書いた。双方の領地で互いに通行税を払い、商品は敵の地を自由に通った。
フランク人の領地の村では、ムスリムの農民がそのまま暮らしていた。収穫の半分と、一人あたりわずかな税を領主に納めるだけで、家も財産も守られていた。イブン・ジュバイルは、多くのムスリムの心は、同じムスリムの領主に治められる土地の民が受けている仕打ちに比べて、フランク人の扱いのほうがましだと感じて惑わされている、と書いた。そしてそれを、信仰にとっての大きな災いだと嘆いた。異教徒の下で楽に暮らせてしまうことこそ危うい、という嘆きである。
アッコンからは、ジェノヴァ人の船に、エルサレム巡礼帰りのキリスト教徒たちと乗り合わせて西へ向かった。船は嵐に遭い、シチリアのメッシーナ近くで座礁した。シチリアはノルマン人の王の国で(ルッジェーロ2世のシチリア王国)、国王グリエルモ2世はアラビア語を読み書きし、ムスリムの役人や医師、料理人を宮廷に置いていた。イブン・ジュバイルは、パレルモの町にモスクがあり、ムスリムが市場を持ち、キリスト教徒の女性がムスリムの女性のような装いをしている様子を書き、ここでも、キリスト教徒の王の下でムスリムが穏やかに暮らすことに複雑な思いを記している。1185年4月、彼はグラナダに帰り着いた。

この旅行記は、彼の死後に「リフラ(旅)」と呼ばれる旅行記の文学の手本となった。140年ほど後に旅に出たイブン・バットゥータの旅の記録も、イブン・ジュバイルの文章をそのまま借りた箇所がある。彼が通った地は、旅から2年後にサラディンがエルサレムを奪い返し(サラディンのエルサレム奪還)、大きく変わっていく。その直前の、戦いのさなかの日常を、一人の巡礼者の目が残した。彼はその後も二度東方へ旅をし、1217年にアレクサンドリアで亡くなった。