ティムール
概要
中央アジアから西アジア・インドまで席巻した。サマルカンドを学問と建築の都にする。
所属
ティムール朝関わったできごと(2)
ティムール帝国の拡大1370年 · 当人アンカラの戦いAD1402年7月20日 · ティムール側 · 総指揮本文
1336年4月9日、中央アジアのサマルカンドの南、ケシュ(いまのウズベキスタンのシャフリサブズ)の近くに生まれた。父はバルラス部族の小領主だった。バルラスはもともとモンゴル高原から移ってきた部族だが、この頃にはトルコ語を話し、イスラームを信仰していた。この地方はチャガタイ汗国の支配下にあったが、汗国は東西に分裂し、部族の長たちが勢力を争う乱世だった。

若いティムールは、羊や馬を奪う盗賊まがいの小さな集団の頭から身を起こした。ある時期、各地の有力者の間を渡り歩き、裏切りと同盟を繰り返しながら手勢を増やしていく。1360年代の初め、イラン東部のスィースターンでの戦いで、右足と右腕に矢傷を負い、生涯、足を引きずって歩くことになった。ペルシア語で「足の悪いティムール」を意味するティムーレ・ラングが、ヨーロッパでタメルランと呼ばれるもとになった。
長く盟友だったのは、義兄にあたるアミール・フサインだった。だが二人は決裂し、1370年、ティムールはバルフでフサインを倒して殺させた。そしてサマルカンドを都に、チャガタイ汗国の西半分の主となった。

ティムールはチンギス・ハンの血を引いていなかった。モンゴルの伝統では、チンギスの子孫でなければハンを名乗れない。そこで彼はチンギス家の男子を名ばかりのハンに立て、自分は「アミール(将軍)」の称号に留まった。チンギス家の王女を妃に迎え、「キュレゲン(婿)」とも名乗った。権威はチンギスの家から借り、実権は自分が握るという形である。
それからおよそ35年、ティムールは毎年のように遠征に出た(ティムール帝国の拡大)。イラン、イラク、カフカス、アナトリア、シリア、そして北インドまで、その騎馬軍は駆けめぐった。北ではキプチャク汗国の君主トクタミシュと戦い、ヴォルガ川下流の都サライを焼いた。これで、黒海からカスピ海を結ぶ北の交易路は大きな打撃を受けた。

征服のやり方は苛烈だった。降伏した町は助け、抵抗した町は皆殺しにした。1387年のイスファハーンでは、反乱を起こした住民を殺し、その首を積み上げて塔をいくつも作ったと年代記は書く。1398年には北インドのデリー・スルタン朝の成立を攻め、デリーを略奪した。戦いの前に、足手まといになるとして捕虜を大量に殺したとも伝えられる。1401年のバグダードでも首の塔が築かれた。数字には誇張があるだろうが、同時代の記録が一致して恐怖を伝えている。
1401年、シリアのダマスクスを囲んでいたとき、ティムールは町にいた北アフリカ出身の歴史家イブン・ハルドゥーンを陣営に招き、何日も語り合った。イブン・ハルドゥーンはその会見を書き残している。ティムールは字が読めなかったが、歴史を好み、学者との議論を楽しみ、チェスを得意としたという。
1402年、アナトリアのアンカラで、オスマン帝国のスルタンバヤズィト1世(雷帝)と戦った(アンカラの戦い)。ティムールは大勝してバヤズィトを捕らえ、バヤズィトは捕らわれのまま翌年に死んだ。鉄の檻に入れて連れ回したという話は後世の誇張とされる。この敗北でオスマン帝国は一時分裂し、コンスタンティノープルの陥落は50年遅れたと言われる。

遠征のたびに、ティムールは殺さなかった者たちを連れ帰った。職人、建築家、学者、画家である。ダマスクスの絹織りや、イランのタイル職人、インドの石工がサマルカンドに集められ、町は青いタイルのドームが並ぶ都に生まれ変わった。妃の名で呼ばれる巨大なビビ・ハヌムのモスクや、ティムール自身が眠ることになる廟グーリ・アミールは、この頃に建てられた。カスティリャ王の使節クラビホは、1404年にサマルカンドを訪れ、その壮麗さと宴のありさまを書き残している。
最後に目指したのは、明だった。かつてモンゴルが支配した中国を取り戻し、異教徒を討つという名目である。明の永楽帝との間には、使節の扱いをめぐって緊張が続いていた。1404年の冬、ティムールは大軍を率いて東へ発った。だが、シル川の町オトラルで病に倒れ、1405年2月18日に亡くなった。68歳だった。

死後、帝国はたちまち息子や孫たちの争いで割れた。それでも、ティムールの子孫たちは中央アジアとイランで文化の花を咲かせた。孫のウルグ・ベクはサマルカンドに天文台を建て、精密な星の表を作った(ウルグ・ベクの星表)。さらに5代後の子孫バーブルはインドへ入り、ムガル帝国の成立を開く。
1941年6月、ソ連の学者たちがグーリ・アミールの墓を開いた。遺骨には、右足と右腕の古い傷の跡がはっきりと残っていた。墓を暴けば大きな災いが起こるという言い伝えがあり、その数日後、ドイツ軍がソ連に攻め込んだことから、ティムールの呪いだという話が広まった。いまウズベキスタンでは、彼はかつてのソ連時代の評価を離れ、国の英雄として広場に像が立っている。破壊者と建設者、どちらの顔もティムールである。