第三回十字軍のアッコン攻囲
概要
エルサレムを失って四年、イングランドとフランスの王が海から来て、二年囲まれていたアッコンを落とした。獅子心王は捕虜2700人を殺し、サラディンと戦って勝ち、エルサレムには入らずに帰った。
場所
32.93°N 35.08°E · イスラエル
関わった人(2)
リチャード1世(獅子心王)AD1157年9月8日–AD1199年4月6日 · イングランド王サラディンAD1137年頃–AD1193年 · 相手本文
1187年7月、サラディンはガリラヤのヒッティーンで十字軍国家の軍をほぼ全滅させた(ヒッティーンの戦い)。10月にはエルサレムも開城させた(サラディンのエルサレム奪還)。エルサレム王国(エルサレム王国)に残ったのは、海沿いのティルスなど、わずかな町だけだった。
捕虜になっていたエルサレム王ギーは、翌年釈放された。ギーはティルスに入ろうとしたが、町を守り抜いた貴族コンラートに入城を拒まれた。行き場を失ったギーは、1189年の夏、少ない兵を連れて、地中海に面した港町アッコンを囲んだ。無謀な企てに見えた。だが、エルサレム陥落の知らせに揺れるヨーロッパから、船で援軍が次々に到着した。サラディンも軍を率いて駆けつけ、包囲する十字軍をさらに外から囲んだ。町を囲む十字軍が、サラディンの軍に囲まれる、二重の包囲になった。

包囲は2年近く続いた。冬には飢えと疫病が陣営を襲い、多くの貴族や兵が死んだ。この間に、ドイツの皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が大軍を率いて陸路で向かったが、1190年、小アジアの川で溺れ死に、軍の大半は散ってしまった。ドイツの巡礼たちがアッコンの陣営に作った病人の看護の集まりは、のちのドイツ騎士団の始まりになる。
1191年4月、フランス王フィリップ2世が到着した。6月には、イングランド王リチャード1世(獅子心王)が来た。リチャードは途中、嵐で流された船を巡ってキプロスの支配者と争い、島をまるごと奪ってから来ていた。二人の王の到着で、包囲は一気に勢いづいた。巨大な投石機が城壁を打ち、坑道が掘られた。投石機の一つは「神の投石機」、フランス王のものは「悪い隣人」と呼ばれたという。
7月12日、飢えと攻撃に耐えかねた守備隊が降伏した。条件は、守備兵の命と引き換えに、サラディンが20万ディナールを払い、ヒッティーンで奪った「真の十字架」を返し、キリスト教徒の捕虜1500人を解放する、というものだった。
だが、支払いと引き渡しは遅れた。サラディンが条件を果たす前に、捕虜だけを取られることを警戒したとも、わざと時間を稼いだとも言われる。8月20日、リチャードは、アッコンの守備兵ら約2700人を町の外へ引き出し、サラディンの軍から見える丘の上で殺させた。十字軍の年代記はこれを当然の報いとして書き、イスラーム側の年代記は、怒りをこめてこの日のことを記した。

アッコンが落ちると、フィリップ2世は病を理由に、7月の末には帰国の途についた。二人の王はもともと仲が悪く、フィリップはリチャードの留守の間に、フランスにあるイングランド王の領地を奪うつもりだった。包囲のさなか、リチャードはオーストリア公の旗を引きずり降ろさせたとされ、この恨みは、のちに帰国途中のリチャードがオーストリア公に捕らえられる原因になった。
リチャードは軍を率いて海沿いに南下し、9月、アルスーフでサラディンの軍を破った。だが、エルサレムには届かなかった。二度にわたって都の手前20キロほどまで進んだが、二度とも引き返した。たとえ取っても、十字軍の兵の多くは巡礼を終えれば国へ帰る。海から離れた内陸の都を、残った兵で守りきることはできない。土地の事情を知る騎士団の助言もあって、リチャードはそう判断したとされる。

戦いのあいだ、リチャードとサラディンの弟アル・アーディルは、何度も使者を交わした。リチャードが自分の妹とアル・アーディルを結婚させ、二人でエルサレムを治めさせるという案まで出たと伝えられる。1192年9月、両者は3年の休戦を結んだ。ティルスからヤッファまでの海沿いはキリスト教徒に、エルサレムはサラディンに残し、キリスト教徒の巡礼は自由に聖地を訪れてよい。リチャードは、一度もエルサレムに入らないまま、10月に帰国の船に乗った。
サラディンは翌1193年に死んだ。アッコンはその後100年、縮小したエルサレム王国の首都として、十字軍の最後の拠点であり続けた。1291年、マムルーク朝の軍に落とされ、十字軍の時代は終わる。