人物

バヤズィト1世(雷帝)

Bayezid I
AD1360年 – AD1403年3月8日(享年43・推定)
オスマン帝国重要度 4

概要

コソヴォで父が殺された天幕で即位し、弟をその場で絞めた。動きが速くて「雷」と呼ばれた。ニコポリスで十字軍を潰し、コンスタンティノープルを囲み、アンカラでティムールに捕えられた。檻に入れられたという話は敵の側の作り。捕虜のまま死んだ。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(2)

コソヴォの戦いAD1389年6月15日 · その場で即位ニコポリスの戦いAD1396年9月25日 · スルタン

本文

バヤズィト1世は1360年ごろ、オスマン家の君主ムラト1世の子として生まれた。母ギュルチチェクは、ギリシア系の出身だったとされる。当時のオスマン家は、アナトリアの北西の一角から興り(オスマン帝国の始まり)、ダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島へと領土を広げつつある新興の勢力だった。若いバヤズィトは、父の命でアナトリアの諸侯の一つゲルミヤン家の王女を妻に迎え、その持参金としてキュタヒヤの町を得て、そこを治めた。

1389年6月、ムラト1世はセルビアの諸侯の連合軍とコソヴォの平原で戦った(コソヴォの戦い)。オスマン軍は勝ったが、ムラトは戦場で、敵の陣から来た一人のセルビア貴族に刺されて死んだと伝えられる。その場で後を継いだバヤズィトが最初にしたことは、戦場で共に戦っていた弟ヤクブを呼び寄せ、絞め殺させることだった。後継の争いを未然に断つためである。即位した君主が兄弟を殺すこの慣習は、のちにメフメト2世によって、世界の秩序のためとして法に定められることになる。

コソヴォの戦いに関わる図版:Battle of Kosovo, Adam Stefanović, 1870
コソヴォの戦いWikimedia Commons Adam Stefanović · Public domain

バヤズィトは、すばやい動きで知られ、「ユルドゥルム(雷)」の異名をとった。即位の翌年には、アナトリア西部のアイドゥン、サルハン、メンテシェなどの諸侯の国を、わずかな期間で次々に併合した。ヨーロッパの側では、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを、1394年から長期にわたって封鎖した。ボスポラス海峡のアジア側には、封鎖のための砦を築いている。ビザンツ帝国は、すでに都とその周りのわずかな土地を残すばかりになっていた。

オスマンの勢いに危機感を募らせたハンガリー王ジギスムントの呼びかけで、フランスやブルゴーニュの騎士を含むヨーロッパ各地の軍勢が十字軍を組んだ。1396年9月、ドナウ川の南岸のニコポリスで、バヤズィトはこの大軍を迎え撃ち、壊滅させた(ニコポリスの戦い)。功を焦ったフランスの騎士たちが先陣を切って突撃し、オスマン軍の罠にかかったのである。多くの騎士が捕らえられ、身代金と引き換えに解放された。この勝利の戦利品をもとに、バヤズィトはオスマン家の最初の都ブルサに、20のドームを持つ大きなモスクを建てた。勝利の前に20のモスクを建てると誓い、代わりに一つのモスクに20のドームを載せたと伝えられる。

ニコポリスの戦いに関わる図版:NikopolisSchlacht
ニコポリスの戦いWikimedia Commons Sébastien Mamerot · Public domain

その後もバヤズィトは東へ領土を広げ、アナトリア中部のカラマン侯国を滅ぼし、東部の町々をマムルーク朝から奪った。だが、そこで東方から勢力を伸ばしてきた征服者ティムールとぶつかった(ティムール帝国の拡大)。両者は互いの敵をかくまい、侮辱に満ちた書簡を交わした。1402年7月、アンカラの近くの平原で、両軍は激突した(アンカラの戦い)。戦いの最中、バヤズィトに従っていたアナトリアの諸侯の兵や、遊牧の騎兵が次々にティムールの側に寝返った。かつてバヤズィトに国を奪われた旧主たちが、ティムールの陣にいたのである。セルビアの君主ステファンの軍勢は最後まで踏みとどまって戦ったが、オスマン軍は崩れ、バヤズィトは逃げる途中で捕らえられた。

捕らわれた後のバヤズィトをめぐっては、さまざまな話が伝わる。ティムールが彼を鉄の檻に入れて連れ歩いた、足台にした、宴の席で妻に酌をさせて辱めた、といった話である。檻の話は、格子のついた輿に乗せて運ばれたことが誇張されたものとも考えられており、どこまでが事実かは分からない。ヨーロッパではこうした話が広く語られ、1587年ごろにはイギリスの劇作家マーロウが、檻の中で頭を打ちつけて死ぬバヤズィトを舞台に描いた。

バヤズィト1世
バヤズィト1世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1403年3月8日、バヤズィトは捕らわれの身のまま、アナトリアのアクシェヒルで死んだ。40歳を過ぎたばかりだった。病死とも、自ら毒をあおったとも言われる。ティムールは遺体を息子の一人に引き渡し、遺体はブルサに葬られた。

バヤズィトの敗北で、オスマン家の国は一時ばらばらになった。息子たちが領土を分けて争う空位の時代が10年あまり続き、最後に勝ち残ったメフメト1世が1413年に国を再びまとめた。コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープル陥落)は、こうして半世紀遅れることになった。もしアンカラの戦いが無ければ、ビザンツ帝国はもっと早く滅んでいただろうと考える歴史家は多い。雷のような速さで国を広げた君主は、その速さゆえに多くの敵を作り、一度の敗北ですべてを失った。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1360年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →