人物

ハーリド・イブン・アル・ワリード

Khalid ibn al-Walid
AD592年頃 – AD642年(享年50・推定)
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)重要度 4

概要

ウフドでムハンマドを破った側の将で、のち改宗して「神の剣」と呼ばれた。背教の諸部族を鎮め、イラクからシリアへ砂漠を横断し、ヤルムークで東ローマを破った。一度も負けなかったが、人気を恐れたカリフに解任され、ベッドで死んだことを悔しがった。

所属

カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)

関わったできごと(1)

ヤルムークの戦いAD636年8月 · アラブ軍の将軍

本文

ハーリド・イブン・アル・ワリードは、初期のイスラームの軍を率いた将軍である。預言者ムハンマドから「神の剣」の名を与えられ、アラビア半島の統一から、ペルシアとローマへの遠征まで、生涯に数多くの戦いを指揮して一度も負けなかったと伝えられる。ところが彼が最初に名を上げたのは、ムハンマドを打ち負かした側の将としてだった。

ハーリド・イブン・アル=ワリードのモスク
ハーリド・イブン・アル=ワリードのモスクWikimedia Commons Public domain

592年ごろ、メッカで生まれた。メッカを支配するクライシュ族の中でも有力なマフズーム家の出で、父のワリードは、ムハンマドの教えに激しく反対したメッカの有力者の一人として、イスラームの伝承に名を残している。ハーリドは若いころから騎兵の名手として知られた。

622年のヒジュラ(聖遷)ののち、メディナに移ったムハンマドとメッカの間で戦いが続いた。625年のウフドの戦いで、ハーリドはメッカ軍の騎兵を率いていた。戦いは初めムスリム側が優勢で、背後の丘を守る弓兵たちは、勝ったと思って戦利品を取りに持ち場を離れた。ハーリドはその隙を見逃さず、騎兵を丘の裏から回り込ませてムスリム軍の背後を突いた。ムスリム軍は崩れ、ムハンマド自身も傷を負った。ムハンマドが率いた戦いの中で、最も手痛い敗北である。

ウフドの戦いに関わる図版:The Prophet Muhammad and the Muslim Army at the Battle of Uhud, from the Siyer-i Nebi, 1595
ウフドの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その後もハーリドはメッカ側で戦い続けたが、629年、同じクライシュ族の名将アムル・イブン・アル・アースとともにメディナへ赴き、イスラームに改宗した。その年のうちに、シリアの境に近いムウタで、ムスリム軍がローマ帝国側の大軍と戦った。三人の指揮官が次々に討たれ、兵たちはハーリドを指揮官に選んだ。ハーリドは、包囲されかけた軍を崩さずに退却させた。この日、自分の手の中で剣が九本折れた、と彼自身が語ったと伝えられる。ムハンマドが彼を「神の剣」と呼んだのは、このときだとされる。

630年、ムハンマドはメッカの征服を果たし、ハーリドもその一翼を担った。だがその後、ある部族のもとへ派遣されたハーリドは、降伏した者たちを殺してしまった。知らせを聞いたムハンマドは、両手を天に上げ、神よ、私はハーリドのしたことに関わりがない、と言ったと伝えられる。勇猛さと、行き過ぎる激しさは、生涯この人について回った。

メッカの征服に関わる図版:Paris, BnF, Supplément Persan 1030 fol. 305v-306r Muhammad and Ali lead destruction of Meccan idols
メッカの征服Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

632年にムハンマドが死ぬと、アラビアの多くの部族がメディナへの服従を拒み、自ら預言者を名乗る者も現れた。初代カリフのアブー・バクルは、ハーリドを討伐軍の主将に任じた。リッダ(背教者)戦争と呼ばれる戦いである。ハーリドは各地の反乱を次々に鎮めた。その中で、有力な族長マーリク・イブン・ヌワイラを殺し、その未亡人をすぐさま妻にした。後の第二代カリフ、ウマルは、ハーリドを罰するよう強く求めたが、アブー・バクルは、神が抜いた剣を鞘に収めることはしない、と言って彼をかばった。

最も激しかったのは、アラビア中部のヤマーマで、預言者を名乗ったムサイリマとの戦いだった。ハーリドは勝ったが、ムスリム側の死者も多く、その中にはクルアーンをそらんじていた者が大勢含まれていた。啓示が失われることを恐れたアブー・バクルとウマルは、クルアーンを書き集める作業を始めたと伝えられる。

戦場となったウフド山(2009年撮影)
戦場となったウフド山(2009年撮影)Wikimedia Commons Adiput ( talk ) · Public domain

633年、ハーリドはペルシアの支配下にあったイラクへ攻め込み、ユーフラテス川の流域で何度も勝って、町を降伏させた。翌634年、シリアでローマ帝国と戦うムスリム軍の援軍に向かうよう命じられた。このとき彼は、普通の道を避けて、水場のない砂漠を数日で横断したと伝えられる。出発前にラクダにたっぷりと水を飲ませ、途中でそのラクダを殺して胃の中の水を飲ませたという話が残る。シリアに入ったハーリドは、ムスリム軍を率いてダマスクスを開城させた。

同じ634年、アブー・バクルが死んでウマルがカリフになると、最初の命令の一つがハーリドの解任だった。総司令官の座は温厚なアブー・ウバイダに移された。ハーリドは不満を口にせず、一人の指揮官として戦い続けた。636年、ヨルダン川の支流のほとりで、ムスリム軍はヘラクレイオスが送ったローマの大軍を破った(ヤルムークの戦い)。この戦いでも、騎兵を率いたハーリドの働きが勝敗を分けたとされる。シリアはローマの手から永久に離れた。

ヤルムークの戦いに関わる図版:Hayton BNF886 9v
ヤルムークの戦いWikimedia Commons anonymous Catalonian illustrator · Public domain

638年ごろ、ウマルはハーリドを軍から完全に退けた。ウマルは各地へ送った手紙で、彼を退けたのは怒りや不正のためではなく、人々が彼に心を奪われ、勝利が神ではなく彼によるものだと思い込むことを恐れたからだ、と説明したと伝えられる。

ハーリドはシリアのホムスで晩年を送り、642年ごろ病で死んだ。50歳前後だった。死の床で、自分は百の戦いに出て、体に剣や槍や矢の傷のない所はない、それなのにラクダのように寝床の上で死んでいく、臆病者たちの目が安らかに眠ることのないように、と嘆いたと伝えられる。

アル・アカバでの第二の誓いを議す場をイブリースが見張る挿絵。ハーリドらクライシュ族の指導者が描かれる
アル・アカバでの第二の誓いを議す場をイブリースが見張る挿絵。ハーリドらクライシュ族の指導者が描かれるWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ホムスには彼の墓とされる場所に、オスマン帝国の時代に建て直されたモスクが立つ。シリア内戦のさなかの2013年、ホムスの攻防の中で、このモスクも砲撃を受けて大きく傷ついた。

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