マラッカ王国の成立
概要
海峡の細いところに港ができた。ここを通らないと東西の船は動けない。イスラムが東南アジアへ広がる入口にもなる。
場所
2.19°N 102.25°E · マレーシア
本文
マレー半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡は、インド洋と南シナ海を結ぶもっとも重要な水路である。かつてこの海峡を押さえていたのは、スマトラのシュリーヴィジャヤの海上交易だった。14世紀には、ジャワのマジャパヒト王国の隆盛と、北のアユタヤが、この海域に勢力を伸ばそうとしていた。
マラッカの起こりを伝えるのは、マレー人の年代記『スジャラ・ムラユ』や、ポルトガル人の記録である。それらによれば、パラメスワラという王子が、ジャワ勢力の攻撃を受けてスマトラのパレンバンから逃れ、いまのシンガポールにあたる島に移った。そこも追われて北へ逃れ、14世紀の終わりから15世紀の初めごろ、海峡に面した小さな漁村に落ち着いた。伝承では、狩りの途中で、猟犬が小さなマメジカに蹴り返されるのを見て、弱い者が強い者に立ち向かうこの地を吉兆と考え、そばにあったマラッカの木の名をとって町の名にしたという。

マラッカは、生まれたばかりの小さな港にすぎず、北のアユタヤに貢ぎ物を求められていた。それを救ったのが、明の皇帝の後ろ盾である。1405年に始まる鄭和の南海遠征は、マラッカを寄港地とし、倉庫を置いた。1411年には、パラメスワラ自身が多くの随員を連れて明の都を訪れている。明に認められた国となったことで、マラッカはアユタヤの圧力をはね返した。
港としての成功は、運営の巧みさによるものだった。港の役人の長であるシャーバンダルが4人置かれ、それぞれが出身地ごとの商人を受け持った。一人はインド西部のグジャラートの商人を、一人は南インドやベンガル、ビルマの商人を、一人はジャワやモルッカなど東南アジアの島々の商人を、一人は中国や琉球の商人を担当した。言葉も慣習も違う商人たちの面倒を、役所の側で分けて引き受けたのである。倉庫を貸し、町の治安を保ち、関税の決まりをはっきりさせた。季節風を待つあいだ安心して滞在でき、品物を確実に売り買いできる港は、商人たちに選ばれた。

16世紀の初めにこの町を訪れたポルトガル人トメ・ピレスは、マラッカでは84の言葉が話されていると書き、マラッカの主になる者はヴェネツィアの喉元を押さえる、とまで記した。インドの綿布、中国の絹と陶磁器、モルッカの丁子とナツメグ、スマトラの胡椒、日本の銀や琉球の品までが、この港で取り引きされた。
マラッカの王は、15世紀のうちにイスラームを受け入れ、スルタンを名乗った。最初の王がいつ改宗したかについては諸説ある。交易の相手にはイスラム教徒の商人が多く、改宗は商人たちとの結びつきを強めるものでもあった。マラッカの勢力が広がるにつれ、海峡の両岸の港の支配者たちも次々にイスラームを受け入れた。商人と港を伝って、イスラームはマレー半島からスマトラ、ジャワ、さらに東の島々へと広がっていった。いまの東南アジアの島々に多くのイスラム教徒が暮らしているのは、この流れの延長にある。マラッカで使われたマレー語は、海域の共通語となり、いまのマレーシア語とインドネシア語のもとになった。
町には、商人たちの出身地ごとの居住区があった。インドのタミル系やグジャラートの商人、ジャワの人々、中国人たちがそれぞれまとまって暮らし、地元のマレー人の女性と結婚する者も多かった。中国から来た人々と土地の人々が混ざり合って生まれたババ・ニョニャ(プラナカン)と呼ばれる人々の文化は、のちのマラッカやペナン、シンガポールの町の顔の一つになった。
15世紀の後半、宰相トゥン・ペラクらのもとで、マラッカはマレー半島の南部とスマトラの東岸まで勢力を広げた。しかし繁栄は100年ほどで終わる。1511年、ポルトガルのアルブケルケが艦隊を率いて攻め寄せ、町を奪った(マラッカの陥落)。スルタンは南へ逃れ、その子孫はジョホールに王国を開いた。
その後、マラッカの町は1641年にオランダの手に移り、1824年の英蘭の取り決めでイギリスのものになった。海峡は、つねに誰かが押さえようとする場所であり続けた。いまもこの海峡を、世界の海上貿易の大きな割合を担う船が通っている。旧市街は、2008年にペナンのジョージタウンとともに世界遺産に登録された。