できごと

タラス河畔の戦い

Battle of Talas
AD751年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民サハラの遊牧民唐フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民サモエード系の人びとツングース系の人びとササン朝ペルシアウイグル可汗国吐蕃吐蕃サーミ東ローマ帝国ヒンドゥーの諸王国ウイグルカルルクチャールキヤ朝カナウジシンド王国Kryvichs南詔と大理パーラ朝マイトラカ朝ササン朝の従属国タイ系の諸王国アクスム王国ハザールマクリアPallavasNan-ZhaoHejazカピシャ国ヒンドゥーの諸国NobatiaBegaMagyarsカシミール王国ブレンミュエスKwarezmズンビール朝アランCuacasian AlbaniaSeveriansSabirsチャーハマーナ朝MazunAD751年タラス河畔(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD751年の版図を描いています(46勢力)。

概要

唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。

場所

タラス河畔位置は特定されていない(誤差 ±40km)
42.52°N 72.24°E · キルギス(正確な位置は特定されていない)

本文

8世紀の半ば、ユーラシアの東と西で、二つの大きな国が中央アジアへ手を伸ばしていた。東は唐である。玄宗の時代、唐は天山山脈の南北に軍を置き、オアシスの国々を従えていた。西はイスラームの国である。7世紀からアラブの軍は東へ進み、ソグド人の町サマルカンドやブハラを支配下に入れていた。ちょうど750年、ダマスクスを都としたウマイヤ朝が倒れ、新しくアッバース朝が立った(アッバース革命)。

衝突のきっかけは、唐の将軍、高仙芝の行いだった。高句麗出身のこの将軍は、パミールの山を越える遠征で名を上げていた。750年、高仙芝は西のオアシスの国、石国(いまのタシケント)を攻め、王を捕らえて長安に送った。王は都で殺された。逃げのびた王子は周りの国々とアラブ側に助けを求めた。

キルギスのタラス川
キルギスのタラス川Wikimedia Commons upyernoz · CC BY 2.0

751年、高仙芝は唐の兵と、従えていた遊牧民や周りの国の兵を率いて西へ進み、タラス川のほとりでアッバース朝の軍とぶつかった。タラス川は、いまのカザフスタンとキルギスの境のあたりを流れる川で、戦場の正確な場所は分かっていない。唐の記録によれば、唐の軍は数万で、戦いは数日にわたった。決着をつけたのは、唐の側にいた遊牧民のカルルクの裏切りだった。カルルクがアッバース朝の側に付いて唐の軍を挟み撃ちにし、唐の軍は大敗した。高仙芝はわずかな兵とともに逃げ帰った。

戦いそのものは、両国の運命を決めるほどの大会戦ではなかった。唐が中央アジアから退いた本当の理由は、4年後に起きた安史の乱である。国の中が乱れ、西の辺境の兵まで呼び戻さなければならなくなった。その後、天山の南北は唐の手を離れ、中央アジアはしだいにイスラームの世界に組み込まれていった。

この戦いが有名なのは、その後に伝わった話のためである。捕虜になった唐の兵の中に紙を漉く技術を持つ者がいて、彼らがサマルカンドで紙を作り始めた、というのである。11世紀のアラブの文人が書き残した話で、サマルカンドの紙はやがて名産として知られるようになった。紙は2世紀初めに中国で改良されて広まったもので(蔡倫の製紙法)、それまでイスラームの世界では、パピルスや羊皮紙に書いていた。

ただ、この話がどこまで本当かは疑われている。中央アジアには、この戦いより前から中国の紙が届いていて、ソグド人の手紙にも紙が使われていた。製紙の技術は、商人や移り住んだ人々を通じて、戦争とは関係なく少しずつ伝わっていたのではないか、と考える研究者は多い。確かなのは、8世紀の終わりからイスラームの世界で紙づくりが急に広まったことである。

捕虜の中には、杜環という唐の人もいた。杜環はアッバース朝の領内で十年あまりを過ごしたのち、海路で中国に帰り、見聞を書き残した。その一部がいまに伝わっていて、アラブの都の様子や、そこで働く中国の絹織りや絵描きの職人のことが記されている。

8世紀の終わり、ハールーン・アッラシードの時代のバグダードには紙を作る工房ができ、役所の文書は紙に書かれるようになった。紙はパピルスより安く、羊皮紙より作りやすい。書き写す材料が安くなったことは、ギリシアやペルシアやインドの学問を大量に訳したバグダードの知恵の館の営みを支えた一つの条件だった。紙づくりはさらにダマスクス、カイロ、北アフリカへと広がり、12世紀にはイベリア半島で紙が作られていた。ヨーロッパのキリスト教の国々に製紙が根づくのは、それより後のことになる。13世紀にはイタリアで紙づくりが盛んになり、紙は羊皮紙に代わって広く使われるようになった。15世紀半ばにグーテンベルクの活版印刷が始まったとき、刷る紙はすでにヨーロッパで作られていた。中国で生まれた技術が、千年以上かけてユーラシアの西の端まで届いたのである。

出典(1)

司馬光 『資治通鑑』巻216

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