タラス河畔の戦い
概要
唐がアッバース朝に敗れた。捕虜を通じて製紙法が西へ伝わり、やがてヨーロッパに届く。
場所
42.52°N 72.24°E · キルギス(正確な位置は特定されていない)
本文
8世紀の半ば、ユーラシアの東と西で、二つの大きな国が中央アジアへ手を伸ばしていた。東は唐である。玄宗の時代、唐は天山山脈の南北に軍を置き、オアシスの国々を従えていた。西はイスラームの国である。7世紀からアラブの軍は東へ進み、ソグド人の町サマルカンドやブハラを支配下に入れていた。ちょうど750年、ダマスクスを都としたウマイヤ朝が倒れ、新しくアッバース朝が立った(アッバース革命)。
衝突のきっかけは、唐の将軍、高仙芝の行いだった。高句麗出身のこの将軍は、パミールの山を越える遠征で名を上げていた。750年、高仙芝は西のオアシスの国、石国(いまのタシケント)を攻め、王を捕らえて長安に送った。王は都で殺された。逃げのびた王子は周りの国々とアラブ側に助けを求めた。

751年、高仙芝は唐の兵と、従えていた遊牧民や周りの国の兵を率いて西へ進み、タラス川のほとりでアッバース朝の軍とぶつかった。タラス川は、いまのカザフスタンとキルギスの境のあたりを流れる川で、戦場の正確な場所は分かっていない。唐の記録によれば、唐の軍は数万で、戦いは数日にわたった。決着をつけたのは、唐の側にいた遊牧民のカルルクの裏切りだった。カルルクがアッバース朝の側に付いて唐の軍を挟み撃ちにし、唐の軍は大敗した。高仙芝はわずかな兵とともに逃げ帰った。
戦いそのものは、両国の運命を決めるほどの大会戦ではなかった。唐が中央アジアから退いた本当の理由は、4年後に起きた安史の乱である。国の中が乱れ、西の辺境の兵まで呼び戻さなければならなくなった。その後、天山の南北は唐の手を離れ、中央アジアはしだいにイスラームの世界に組み込まれていった。
この戦いが有名なのは、その後に伝わった話のためである。捕虜になった唐の兵の中に紙を漉く技術を持つ者がいて、彼らがサマルカンドで紙を作り始めた、というのである。11世紀のアラブの文人が書き残した話で、サマルカンドの紙はやがて名産として知られるようになった。紙は2世紀初めに中国で改良されて広まったもので(蔡倫の製紙法)、それまでイスラームの世界では、パピルスや羊皮紙に書いていた。
ただ、この話がどこまで本当かは疑われている。中央アジアには、この戦いより前から中国の紙が届いていて、ソグド人の手紙にも紙が使われていた。製紙の技術は、商人や移り住んだ人々を通じて、戦争とは関係なく少しずつ伝わっていたのではないか、と考える研究者は多い。確かなのは、8世紀の終わりからイスラームの世界で紙づくりが急に広まったことである。
捕虜の中には、杜環という唐の人もいた。杜環はアッバース朝の領内で十年あまりを過ごしたのち、海路で中国に帰り、見聞を書き残した。その一部がいまに伝わっていて、アラブの都の様子や、そこで働く中国の絹織りや絵描きの職人のことが記されている。
8世紀の終わり、ハールーン・アッラシードの時代のバグダードには紙を作る工房ができ、役所の文書は紙に書かれるようになった。紙はパピルスより安く、羊皮紙より作りやすい。書き写す材料が安くなったことは、ギリシアやペルシアやインドの学問を大量に訳したバグダードの知恵の館の営みを支えた一つの条件だった。紙づくりはさらにダマスクス、カイロ、北アフリカへと広がり、12世紀にはイベリア半島で紙が作られていた。ヨーロッパのキリスト教の国々に製紙が根づくのは、それより後のことになる。13世紀にはイタリアで紙づくりが盛んになり、紙は羊皮紙に代わって広く使われるようになった。15世紀半ばにグーテンベルクの活版印刷が始まったとき、刷る紙はすでにヨーロッパで作られていた。中国で生まれた技術が、千年以上かけてユーラシアの西の端まで届いたのである。