ムラービト朝のガーナ攻撃
概要
サハラの遊牧民の宗教運動が、南のガーナ帝国の都を攻めた。都を落としたかどうかは史料が割れているが、以後ガーナは衰える。
場所
15.77°N -7.98°E · モーリタニア(ガーナ帝国の都の推定地)
本文
サハラ砂漠の南の縁、いまのモーリタニア南東部からマリ西部にかけて、ガーナと呼ばれる王国があった(ガーナ帝国)。王国はソニンケの人々が建て、南の森から運ばれる金と、北のサハラから運ばれる塩との取り引きを押さえて栄えた(ガーナ王国の金と塩の交易)。北アフリカの商人たちは、ここを「金の国」と呼んだ。
1068年、イベリア半島のコルドバで地理書を著したバクリーは、ガーナの都の様子を書き残している。本人は行っていないが、多くの商人から話を集めた。都は二つの町からなり、一方はムスリムの商人の町で、12のモスクがあった。数キロ離れたもう一方が王の町で、王は昔からの信仰を守っていたが、ムスリムを大臣や通訳に用いていた。金の塊は王のものとし、砂金だけを民に取り引きさせて、値が崩れないようにしていた、という。
その頃、サハラの西部では、遊牧のベルベル人の間で宗教の改革運動が起きていた。11世紀の前半、メッカ巡礼から戻った部族の長が、厳格なイスラームを教える学者イブン・ヤースィーンを連れてきた。学者のもとに集まった戦士たちは、「ムラービトゥーン」と呼ばれた。辺境の砦にこもって信仰を守る者たち、という意味だとされる。これがムラービト朝の始まりである。
ムラービトの軍は、まずサハラの交易の要を押さえにかかった。1054年には、ガーナに従っていた南の交易の町アウダゴーストを攻め落とした。その後、運動は北と南に分かれる。北へ向かったユースフ・イブン・ターシュフィーンは、マラケシュの町を築いてモロッコを征服し、1086年にはイベリア半島へ渡って、キリスト教国の軍を打ち破った(トレドの陥落の翌年である)。

南に残ったのは、指導者のアブー・バクルだった。1076年、ムラービトの軍がガーナの都を落とした、とアラビア語の史料は伝える。ただし、この話をはっきりと書いているのは、事件から300年ほど後の歴史家イブン・ハルドゥーンで、同時代の記録ではない。12世紀の地理学者ズフリーは、この年にガーナの人々がイスラームに改宗したと書いているが、征服とは書いていない。
そのため、実際に都が占領されたのかどうかは、研究者の間で意見が分かれている。1980年代には、軍事的な征服そのものが無かったのではないかという見方が出され、議論を呼んだ。ムラービトの勢力は南ではまとまった国を作らず、アブー・バクルも1087年に戦いの中で死んだ。

確かなのは、この頃からガーナの姿が変わっていったことである。12世紀半ばの地理学者イドリースィーは、ガーナの王をムスリムとして描いている。王の改宗が征服によるのか、交易を通じた長い交わりの結果なのかは分からない。いずれにせよ、サヘルの国々がイスラームを受け入れていく流れは、この時期と前後して進んでいった。
ガーナは衰えていった。交易の道はしだいに東へずれ、従っていた周りの人々が離れていった。13世紀の初めには、南のソッソの王がガーナの都を押さえたとされる。そのソッソを打ち破って新しい国を開いたのが、マンデの人々を率いたスンジャタ・ケイタだった(マリ帝国の成立)。金の国の名は、マンサ・ムーサの巡礼で知られるマリへと引き継がれていく。

モーリタニア南東部のクンビ・サレーの遺跡は、石造りの家とモスクの跡が並び、バクリーの書いたムスリムの町だと考えられている。王の町はまだ見つかっていない。1957年、イギリスの植民地だった黄金海岸が独立したとき、新しい国はこの古い王国の名を選び、ガーナと名乗った(ガーナの独立)。古いガーナの土地からは遠く離れているが、植民地になる前のアフリカにも偉大な国があったことを示す名だった。