できごと

デリー・スルタン朝の成立

Delhi Sultanate
AD1206年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民バントゥー系の人びと西遼(カラ・キタイ)西アフリカの穀作農民クマン(キプチャク)金(女真)アイユーブ朝チベットキエフ・ルーシブワイフ朝モンゴル帝国宋ファーティマ朝ラージプートの諸王国ツングースの諸部族ガズナ朝デリー・スルタン朝デリー・スルタン朝西夏そのほかのルーシ諸公国イファト王国ヴォルガ・ブルガールマレー系の人びとマクリアルーム・セルジューク朝クメール帝国チョーラ朝南詔シュリーヴィジャヤKwarizm-Shah南詔と大理Harapunchaiパガン朝パガン朝アルワイスラムの都市国家群ブワイフ朝ハドラマウトイエメンアルメニア大越大越ヒンドゥーと仏教の小国群Kamarupaピュー(驃)の諸都市ネパールモンの諸国チャンパブータンマスカットジョージアAD1206年デリー
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概要

北インドにイスラム政権が定着した。ヒンドゥーとイスラムが混ざり合う長い時代が始まる。

場所

デリー
28.61°N 77.21°E · インド

本文

1206年、北インドのデリーで、トルコ系の将軍クトゥブッディーン・アイバクが、主君の死をきっかけに独立した政権を立てた。アイバクはもとは奴隷として買われた兵士だった。このため、彼から始まる王朝は「奴隷王朝」と呼ばれる。以後320年、北インドはデリーを都とするイスラームの王朝に治められた。

イスラームの軍がインドに入ってきたのは、これが初めてではない。11世紀には、アフガニスタンのガズナ朝のマフムード・ガズナウィーが、十数回にわたって北インドに攻め込み、寺院の財宝を奪って引き上げていた。12世紀の末、同じアフガニスタンのゴール朝のムハンマドが、1192年にデリーの近くでラージプートの王プリトヴィーラージを破り、北インドの平原を手に入れた。征服を実際に進めたのが、配下の奴隷出身の将軍アイバクだった。1206年にムハンマドが暗殺されると、アイバクはインドの領土の主として自立した。

アラー・ウッディーン・ハルジー
アラー・ウッディーン・ハルジーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アイバクは4年後に馬上の競技中の事故で死に、娘婿のイルトゥトミシュが王朝を固めた。イルトゥトミシュは、バグダードのカリフから正式なスルタンとして認められ、デリーを都として整えた。その死後、娘のラズィーヤが位を継いでいる(ラズィーヤの即位)。デリーの歴代の君主で、女性はこの一人だけである。

この時代、デリーは大きな危険にさらされていた。モンゴルである。13世紀、モンゴルの軍は中央アジアからイランまでを征服し、インドの北西の境にも繰り返し攻め込んできた。1290年に始まるハルジー朝のアラーウッディーンは、大軍を常に養い、何度もモンゴルを退けた。軍を養う金を集めるため、地租を重くし、都の市場で穀物や馬の値段を厳しく定めた。モンゴルが中国やイランやロシアで町を破壊したのに比べ、インドの中心部はその破壊を免れた。

トゥグルク朝創始者ギヤースッディーン・トゥグルクの肖像(15世紀初頭の写本)
トゥグルク朝創始者ギヤースッディーン・トゥグルクの肖像(15世紀初頭の写本)Wikimedia Commons 1410 painter and writer · Public domain

アラーウッディーンの将軍マリク・カーフールは、南インドまで遠征し、デカン高原の王国から多くの財宝を持ち帰った。続くトゥグルク朝のムハンマドは、領土の真ん中から治めようと、都をデカンのダウラターバードへ移し、住民にも移住を命じたが、うまくいかず、まもなく戻した。銅の代用貨幣を出して偽造が出回り、これも失敗した。北アフリカの旅行家イブン・バットゥータは、この王に仕えてデリーで裁判官を務め、気前の良さと残酷さが同居する人柄を書き残している。

イスラームの政権が定着したことは、インドの文化を大きく変えた。宮廷と役所の言葉にはペルシア語が使われ、ペルシアや中央アジアの学者、詩人、職人がデリーに集まった。モンゴルに追われた人々が逃げてきたことも大きい。建築には、真のアーチとドームが持ち込まれた。アイバクが建てはじめたクトゥブ・ミナールの塔は、いまもデリーに立っている。詩人アミール・フスローは、ペルシア語と土地の言葉の両方で詩を書き、音楽の世界にも名を残した。ペルシア語の語彙が北インドの言葉に混ざり合ったものが、後にウルドゥー語とヒンディー語へつながっていく。スーフィーと呼ばれるイスラームの神秘主義の聖者たちは、民衆の間に信仰を広めた。

第一次パーニーパットの戦い(1526年)でのロディー朝最後のスルタン、イブラーヒーム・ローディー
第一次パーニーパットの戦い(1526年)でのロディー朝最後のスルタン、イブラーヒーム・ローディーWikimedia Commons c.1590 artist · Public domain

同時に、征服の過程で多くのヒンドゥー寺院や仏教の僧院が壊された。デリーで最初に建てられたモスクは、壊した寺院の柱を使って建てられている。その記憶は、いまもインドの政治で取り上げられ、宗教の対立をあおる材料にもなっている。

一方、実際の統治では、スルタンは土地の仕組みに頼るしかなかった。農村から税を集めたのは、ヒンドゥーの地主や村の長だった。征服された地方の王の多くも、貢ぎ物を納めることで地位を保った。ムスリムは支配層の一部にとどまり、住民の大多数はヒンドゥー教徒のままだった。デリーの政権は、少数の支配者が多数の住民を治める仕組みを、手探りで作っていった。

1324年、ティルフート征服でギヤースッディーン・トゥグルクが軍を率いる場面
1324年、ティルフート征服でギヤースッディーン・トゥグルクが軍を率いる場面Wikimedia Commons 1410 painter and writer · Public domain

14世紀の後半になると、王朝の力は衰え、南インドや東のベンガルが離れていった。1398年、中央アジアのティムールがデリーに攻め込み、町を略奪した(ティムール帝国の拡大)。デリーはしばらく立ち直れなかった。その後、サイイド朝、ローディー朝と続いたが、かつての広さは戻らない。

1526年、ティムールの子孫バーブルが、アフガニスタンからインドに入り、第一次パーニーパットの戦いでローディー朝の軍を破った。奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝の五つの王朝が続いたデリー・スルタン朝は、ここで終わり、ムガル帝国の成立の時代が始まる。ムガルの宮廷のペルシア語の文化も、ヒンドゥーの有力者を取り込む統治も、デリーの320年の上に築かれた。

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