デリー・スルタン朝の成立
概要
北インドにイスラム政権が定着した。ヒンドゥーとイスラムが混ざり合う長い時代が始まる。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
本文
1206年、北インドのデリーで、トルコ系の将軍クトゥブッディーン・アイバクが、主君の死をきっかけに独立した政権を立てた。アイバクはもとは奴隷として買われた兵士だった。このため、彼から始まる王朝は「奴隷王朝」と呼ばれる。以後320年、北インドはデリーを都とするイスラームの王朝に治められた。
イスラームの軍がインドに入ってきたのは、これが初めてではない。11世紀には、アフガニスタンのガズナ朝のマフムード・ガズナウィーが、十数回にわたって北インドに攻め込み、寺院の財宝を奪って引き上げていた。12世紀の末、同じアフガニスタンのゴール朝のムハンマドが、1192年にデリーの近くでラージプートの王プリトヴィーラージを破り、北インドの平原を手に入れた。征服を実際に進めたのが、配下の奴隷出身の将軍アイバクだった。1206年にムハンマドが暗殺されると、アイバクはインドの領土の主として自立した。

アイバクは4年後に馬上の競技中の事故で死に、娘婿のイルトゥトミシュが王朝を固めた。イルトゥトミシュは、バグダードのカリフから正式なスルタンとして認められ、デリーを都として整えた。その死後、娘のラズィーヤが位を継いでいる(ラズィーヤの即位)。デリーの歴代の君主で、女性はこの一人だけである。
この時代、デリーは大きな危険にさらされていた。モンゴルである。13世紀、モンゴルの軍は中央アジアからイランまでを征服し、インドの北西の境にも繰り返し攻め込んできた。1290年に始まるハルジー朝のアラーウッディーンは、大軍を常に養い、何度もモンゴルを退けた。軍を養う金を集めるため、地租を重くし、都の市場で穀物や馬の値段を厳しく定めた。モンゴルが中国やイランやロシアで町を破壊したのに比べ、インドの中心部はその破壊を免れた。

アラーウッディーンの将軍マリク・カーフールは、南インドまで遠征し、デカン高原の王国から多くの財宝を持ち帰った。続くトゥグルク朝のムハンマドは、領土の真ん中から治めようと、都をデカンのダウラターバードへ移し、住民にも移住を命じたが、うまくいかず、まもなく戻した。銅の代用貨幣を出して偽造が出回り、これも失敗した。北アフリカの旅行家イブン・バットゥータは、この王に仕えてデリーで裁判官を務め、気前の良さと残酷さが同居する人柄を書き残している。
イスラームの政権が定着したことは、インドの文化を大きく変えた。宮廷と役所の言葉にはペルシア語が使われ、ペルシアや中央アジアの学者、詩人、職人がデリーに集まった。モンゴルに追われた人々が逃げてきたことも大きい。建築には、真のアーチとドームが持ち込まれた。アイバクが建てはじめたクトゥブ・ミナールの塔は、いまもデリーに立っている。詩人アミール・フスローは、ペルシア語と土地の言葉の両方で詩を書き、音楽の世界にも名を残した。ペルシア語の語彙が北インドの言葉に混ざり合ったものが、後にウルドゥー語とヒンディー語へつながっていく。スーフィーと呼ばれるイスラームの神秘主義の聖者たちは、民衆の間に信仰を広めた。

同時に、征服の過程で多くのヒンドゥー寺院や仏教の僧院が壊された。デリーで最初に建てられたモスクは、壊した寺院の柱を使って建てられている。その記憶は、いまもインドの政治で取り上げられ、宗教の対立をあおる材料にもなっている。
一方、実際の統治では、スルタンは土地の仕組みに頼るしかなかった。農村から税を集めたのは、ヒンドゥーの地主や村の長だった。征服された地方の王の多くも、貢ぎ物を納めることで地位を保った。ムスリムは支配層の一部にとどまり、住民の大多数はヒンドゥー教徒のままだった。デリーの政権は、少数の支配者が多数の住民を治める仕組みを、手探りで作っていった。

14世紀の後半になると、王朝の力は衰え、南インドや東のベンガルが離れていった。1398年、中央アジアのティムールがデリーに攻め込み、町を略奪した(ティムール帝国の拡大)。デリーはしばらく立ち直れなかった。その後、サイイド朝、ローディー朝と続いたが、かつての広さは戻らない。
1526年、ティムールの子孫バーブルが、アフガニスタンからインドに入り、第一次パーニーパットの戦いでローディー朝の軍を破った。奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝の五つの王朝が続いたデリー・スルタン朝は、ここで終わり、ムガル帝国の成立の時代が始まる。ムガルの宮廷のペルシア語の文化も、ヒンドゥーの有力者を取り込む統治も、デリーの320年の上に築かれた。