ソムナート寺院の略奪
概要
ガズナ朝の17回目の遠征。持ち帰られた富がガズナを学芸の都にした一方、この記憶はインドで千年語り継がれ、いまも政治に使われている。
場所
20.89°N 70.40°E · インド・グジャラート州
関わった人(1)
マフムード・ガズナウィーAD971年–AD1030年 · 遠征本文
グジャラートのサウラーシュトラ半島の南の海岸、プラバース・パータンにソームナート寺院がある。シヴァ神を祀る十二の聖地の一つとされ、巡礼が集まり、港からの富も流れ込む寺だった。
アフガニスタンのガズナを都としたマフムード・ガズナウィーは、1000年ごろから北インドへ遠征を繰り返した。伝統的には17回と数えられる。狙いは、領土よりも寺院と都市に積まれた財宝だった。持ち帰った金銀は、ガズナの宮廷を飾り、中央アジアでの戦いの軍資金になった。ガズナには学者や詩人が集められ、ペルシアの叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』を完成させたフィルドウスィーも、その作品をマフムードに献じた。ただし褒美の少なさに怒った詩人が王を風刺した、という話も伝わっている。インドからの略奪は、ペルシア語の文化を花開かせる元手にもなった。

1025年の秋、マフムードはムルターンを発ち、タール砂漠を越えて南へ向かった。ラクダに水を積ませて渡ったと伝えられる。翌1026年の1月、ソームナートに着いた。この地を治めるチャウルキヤ朝のビーマ1世は都を捨てて逃れ、寺院に立てこもった人々との戦いは数日続いたとされる。寺は荒らされ、本尊のリンガは打ち砕かれ、財宝が運び出された。
その数字は、史料によって大きく違う。13世紀にイブン・アル=アシールが書いた年代記は、5万人が殺され、2000万ディーナール分の財宝を奪ったとする。だが200年後の記録で、数字は誇張されているとみるのが普通だ。マフムードに仕えた詩人ファッルヒーは、この寺の名を、イスラーム以前のアラビアの女神マナートに結びつけ、偶像を打ち砕いた勝利として歌った。ペルシア語の文学の中で、ソームナートはマフムードを信仰の戦士として讃える舞台になっていく。同じ宮廷にいたアル=ビールーニーは、著書『インド誌』で、この寺の像が壊されたことを淡々と記している。

インド側の記録は、意外なほど静かだ。歴史家ロミラ・ターパルが調べたところでは、同時代のサンスクリットやジャイナ教の文献は、この略奪をほとんど取り上げていない。寺はほどなく再建され、12世紀にはチャウルキヤ朝の王が石の寺に建て替えたことが碑文に残る。13世紀の碑文には、ペルシア湾のホルムズから来たムスリムの船主が、寺の役人たちの了解を得て、近くにモスクを建てる土地を手に入れたことまで書かれている。略奪の後も、この港は交易で人と神々が隣り合う場所だった。
この出来事が「千年の傷」として語られるようになったのは、ずっと後のことになる。1842年、第一次アフガン戦争の後、インド総督エレンボローは、マフムードがソームナートから奪った門がガズナの墓にあると称して、それをインドへ持ち帰らせた。800年の恥辱がついに雪がれた、と布告している。運ばれた門は、彫りの様式がインドの寺のものではなく、寺とは無関係と分かった。イギリスの議会でも嘲笑され、門はいまもアーグラ城の倉に眠っている。
それでも、ヒンドゥーとムスリムは昔から敵どうしだったという物語の中で、ソームナートは格好の証拠として使われ続けた。インドの独立とインド・パキスタン分離の後、政治家のヴァッラブバーイー・パテールが寺の再建を誓い、1951年に新しい寺の落成式が行われた。首相のジャワハルラール・ネルーは、世俗の国家が宗教の復興に関わるべきではないとして大統領の出席に反対したが、ラージェーンドラ・プラサード大統領は出席した。

1990年、インド人民党のアドヴァーニーは、アヨーディヤーに寺を建てる運動の行進をソームナートから始めた。千年前の一度の略奪が、20世紀の政治の言葉として使われた。何が起きたのかと、それがどう記憶されてきたのかは、別々に調べなければならない。ソームナートは、その違いを示す例としてよく取り上げられる。マフムードの遠征が開いた北インドへの道は、のちにムハンマド・ゴーリーとデリー・スルタン朝の成立へと続いていく。