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Person / 人

マフムト2世

Mahmud II
AD1785年7月20日 – AD1839年7月1日(享年53)
オスマン帝国重要度 4

概要

従兄弟のセリム3世が改革でイェニチェリに殺され、兄も殺され、宮殿の炉に隠れて生き延びた。1826年、イェニチェリを撃った。ヨーロッパ式の軍、官庁、郵便、新聞、フェズ(ターバンの代わり)、ズボン。ギリシアが独立し(1830年)、エジプトのムハンマド・アリーに2度負け、ロシアに助けを求めた。ギュルハネ勅令の4か月前に死んだ。「オスマンのピョートル」。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(1)

イェニチェリの廃止AD1826年6月15日 · 撃った

本文

1785年、イスタンブール。アブデュルハミト1世の子。母ナクシディル(フランス人でジョゼフィーヌの従姉妹だ、という話は作り話)。1789年、父が死んで、従兄弟のセリム3世が即位した。セリムはマフムトを可愛がり、改革(ニザーム・ジェディード)を教えた。1807年、イェニチェリの反乱でセリムが廃位、マフムトの兄ムスタファ4世が即位。1808年7月、アレムダル・ムスタファ・パシャ(ルスチュクの豪族)がセリムを戻すために宮殿に攻め込み、ムスタファ4世はセリムを絞殺させ、マフムトも殺そうとした。マフムトは宦官に隠されて(浴場の炉、と伝える)、屋根に逃げた。アレムダルが着いて、マフムトを即位させ、ムスタファを殺した。オスマンの家で、男はマフムト一人。

1808年11月、イェニチェリがアレムダルを襲い、アレムダルは火薬庫に火をつけて死んだ。マフムトはイェニチェリに従った。18年。

1826年、吉祥事件。それから13年。軍(ヨーロッパ式の歩兵、砲兵、騎兵。陸軍学校1834年)、行政(大宰相府を「首相府」に、外務省、内務省、財務省、閣議)、郵便(1834年)、新聞(1831年、『タクヴィム・イ・ヴェカイ』官報)、人口調査、パスポート、フェズ(1829年、官吏の服装。ターバンと長衣を禁じた)、ヨーロッパの音楽(ドニゼッティの兄が宮廷楽団)、肖像画(自分の肖像を役所に掲げさせた。偶像禁止の慣習を破った)。ワクフ(宗教寄進財産)を国の管理に。デレベイ(地方の豪族)を潰した。

外。1821〜30年、ギリシア独立戦争。エジプトのムハンマド・アリーの軍で鎮圧しかけて、1827年、ナヴァリノでイギリス・フランス・ロシアの艦隊がオスマン・エジプト艦隊を沈めた。1828〜29年、ロシアとの戦争、負け。1830年、ギリシア独立、フランスがアルジェを取った。1831〜33年、ムハンマド・アリーがシリアを取って、アナトリアに入った(キュタヒヤ)。マフムトはロシアに助けを求めた(ウンキャル・スケレッシ条約、1833年)。1839年6月24日、ニジプで、また負けた。7月1日、結核で死んだ。53歳。艦隊がエジプトに寝返ったのは死の直後。

「オスマンのピョートル大帝」「改革者(ムジェッディト)」「異教徒のスルタン(ガーヴル・パーディシャー)」。2人の息子がスルタンになった(アブデュルメジト、アブデュルアズィズ)。それ以後のスルタンは全部、彼の子孫。