スレイマン1世
概要
オスマンの最盛期の君主。ウィーンを囲み、地中海を制し、法を整えた。
所属
オスマン帝国関わったできごと(2)
モハーチの戦いAD1526年8月29日 · 総指揮第一次ウィーン包囲AD1529年 · オスマン側 · 総指揮本文
オスマン帝国の第10代スルタンで、1520年から1566年まで46年間在位した。その治世は、帝国の領土と富と文化が頂点に達した時代として記憶されている。ヨーロッパでは「壮麗者」と呼ばれ、オスマンの人々は「カーヌーニー(立法者)」と呼んだ。外から見えたのは軍の強さと宮廷の華やかさで、内から見えたのは法と秩序だった。呼び名の違いが、そのまま見ている面の違いになっている。
生まれは1494年とされる(1495年とする説もある)。黒海沿岸のトラブゾンで、当時そこの総督をしていた父セリムのもとに生まれた。若いころから各地の総督として統治を学んだ。父のセリム1世は兄弟を倒して即位し、在位8年ほどの間にサファヴィー朝を破り、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトとアラビアの聖地を手に入れた苛烈な君主だった(セリム1世のエジプト征服)。1520年、父が急死すると、スレイマンはただ一人の男子として、争いなしに26歳で位を継いだ。

即位すると、すぐに西へ向かった。1521年、かつて祖先のメフメト2世でも落とせなかったハンガリーの要塞ベオグラードを攻め落とした(その前の攻防はベオグラードの包囲(1456年))。翌1522年には、エーゲ海の東のロドス島を半年近く包囲し、そこを本拠にしていた聖ヨハネ騎士団を降伏させた。スレイマンは騎士たちが武器を持って島を去ることを許し、彼らはのちにマルタ島へ移る。
1526年8月、ハンガリーの平原モハーチで、ハンガリー王ラヨシュ2世の軍を2時間ほどの戦いで打ち破った(モハーチの戦い)。若い王は退却の途中で沼に落ちて溺れ死に、中世のハンガリー王国はここで事実上崩れた。王位をめぐって、オスマンの後ろ盾を得た貴族と、ハプスブルク家のフェルディナントが争うことになる。

1529年秋、スレイマンはフェルディナントの拠点ウィーンを囲んだ(第一次ウィーン包囲)。だがこの年は長雨で道がぬかるみ、重い大砲を運べなかった。包囲はわずか3週間ほどで、寒さが迫るなか兵を引いた。ハプスブルク家の当主で神聖ローマ皇帝のカール5世とは、その後もヨーロッパの覇権を争い続ける。スレイマンはカール5世の宿敵だったフランス王フランソワ1世と手を結び、キリスト教国の王がイスラームの君主と組むという、当時のヨーロッパを驚かせる関係を作った。1541年にはハンガリーの中心ブダを直接の支配下に置いた。
東では、シーア派のサファヴィー朝と争った。1534年から遠征を重ねてバグダードを含むイラクを手に入れ、1555年の和約で国境を定めた。南では紅海やインド洋にも艦隊を送り、ポルトガルと交易路を争った。

海では、北アフリカの海賊の頭目からオスマンの提督になったバルバロス・ハイレッディンが艦隊を率いた。1538年、ギリシア西岸のプレヴェザの沖で、ヴェネツィアやスペインなどの連合艦隊を退け、地中海の東半分の制海権を握った。オスマンの艦隊がフランスの港で冬を越したこともある。
それでも、すべてが思い通りになったわけではない。1565年、帝国は大艦隊でマルタ島を囲んだが、ロドスから移っていた聖ヨハネ騎士団の抵抗で落とせず、数か月で兵を引いた。

内政では、法を整えた。イスラーム法(シャリーア)は信仰と家族と商取引を細かく定めているが、税の取り方や刑罰、軍人への土地の割り当てといった統治の実務については決まりが少ない。スレイマンの時代には、そうした分野について歴代のスルタンが出してきた勅令や地方の慣習をまとめ、帝国の各地で同じ基準で運用できるように法令集が作られた。イスラーム法学者エブッスウードは、スルタンの法とイスラーム法が矛盾しないよう理論を整えた。「立法者」の名はここから来ている。
文化も花開いた。建築家ミマール・スィナンは、スレイマンのためにイスタンブールの丘の上にスレイマニエ・モスクを建て、1557年に完成させた。スレイマン自身もムヒッビー(愛する者)という筆名で多くの詩を残している。

宮廷では、異例のことが続いた。スレイマンは、ルテニア(いまのウクライナ西部あたり)出身の奴隷の女性ヒュッレムを寵愛し、ついに正式に妻とした。オスマンのスルタンが奴隷の女性と正式に結婚するのは、長い間なかったことである。ヨーロッパではロクセラーナの名で知られ、宮廷の政治に大きな力を持った。二人の間で交わされた愛情のこもった手紙が残っている。
一方で、近しい人々を次々に失わせたのもスレイマン自身だった。若いころからの側近で、奴隷の身分から大宰相にまで引き立てたイブラヒム・パシャを、1536年に処刑した。権勢が大きくなりすぎたためとも、ヒュッレムとの対立のためとも言われる。1553年には、兵士たちに人気のあった長男ムスタファを、謀反の疑いでペルシア遠征の陣中の自分の天幕に呼び出し、そこで絞殺させた。ヒュッレムが自分の子を跡継ぎにするために讒言したという話が広まったが、真相は分からない。のちには、ヒュッレムの子どうしの後継争いのなかで、息子バヤズィトとその子どもたちも処刑されている。

1566年、70歳を過ぎたスレイマンは、自ら軍を率いて13回目の遠征に出た。ハンガリーのシゲトヴァールの要塞を囲む陣中で、9月に死んだ。大宰相ソコルル・メフメト・パシャはその死を伏せ、要塞が落ちるまで、そして跡継ぎのセリム2世が位に就く準備が整うまで、兵士たちに知らせなかった。死は数週間にわたって秘されたという。
スレイマンの後、帝国はすぐに衰えたわけではない。だが、スルタン自らが陣頭に立って遠征し、領土を広げ続ける時代は、ほぼここで終わった。100年あまり後の第二次ウィーン包囲の失敗は、帝国の膨張が限界に来たことをはっきりと示すことになる。