人物

フサイン・イブン・アリー

Husayn ibn Ali
AD626年 – AD680年10月10日(享年54・推定)
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)重要度 4

概要

アリーと預言者の娘ファーティマの子。ムアーウィヤの子ヤズィードへの忠誠を拒み、クーファに招かれて向かい、カルバラーで殺された。シーア派の三代目イマームで、その死はアーシューラーの日に毎年演じ直される。

所属

カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)

関わったできごと(1)

カルバラーの悲劇AD680年10月10日 · 殺された

本文

フサイン・イブン・アリーは、預言者ムハンマドの孫である。父は第四代カリフのアリー、母は預言者の娘ファーティマ。680年、イラクのカルバラーで、ウマイヤ朝の軍に囲まれて一族とともに殺された(カルバラーの悲劇)。この死によって、彼はシーア派の第三代イマームとして、また不正な権力に命をかけて立ち向かった殉教者の象徴として、千三百年以上にわたって悼まれ続けている。

カルバラーの悲劇に関わる図版:Brooklyn Museum - Battle of Karbala - Abbas Al-Musavi - cropped
カルバラーの悲劇Wikimedia Commons Persian Painter Abbas Al-Musavi. · Public domain

626年の初め、メディナで生まれた。一つ年上の兄ハサンとともに、祖父ムハンマドにことのほかかわいがられた。ハサンとフサインは楽園の若者たちの長である、フサインは私から出て、私はフサインから出ている、といった預言者の言葉が伝えられている。礼拝の最中に孫が背中に乗ってきたとき、預言者は孫が自分から降りるまで、ひれ伏したまま待っていたという話もある。

だが、彼が成長するにつれて、共同体は割れていった。656年、第三代カリフのウスマーンが殺され、父アリーがカリフになると、ウスマーンと同じウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤがこれを認めず、両者は戦った(スィッフィーンの戦い)。661年、アリーは礼拝の場で暗殺された。兄のハサンは一時カリフに推されたが、ムアーウィヤと争うことを避け、位を譲った。こうしてウマイヤ朝が始まった(ウマイヤ朝の成立)。ハサンは670年に死んだ。妻に毒を盛られたとシーア派の伝承は語る。フサインはその後もメディナで暮らし、ムアーウィヤが生きている間は表立って逆らわなかった。兄が結んだ約束を守ったのだと言われる。

スィッフィーンの戦いに関わる図版:An Illustrated and Illuminated leaf from a Persian Manuscript, Persia, Safavid, dated 1516
スィッフィーンの戦いWikimedia Commons Sotheby's · Public domain

680年、ムアーウィヤが死に、息子のヤズィードが跡を継いだ。カリフの位を親から子へ世襲させるのは、これが初めてだった。メディナの総督はフサインに、ヤズィードへの忠誠を誓うよう求めた。フサインは、自分のような者があのような者に忠誠を誓うことはない、と答えたと伝えられる。彼はその夜のうちに家族を連れてメディナを出て、メッカに移った。

メッカにいるフサインのもとに、イラクのクーファから手紙が次々に届いた。クーファはかつて父アリーが都を置いた町で、アリーの一族を慕う人々が多かった。来てくだされば、私たちはあなたのために戦う、と手紙は言った。フサインは従兄弟のムスリム・イブン・アキールを先にクーファへ送った。だがウマイヤ朝の新しい総督ウバイドゥッラーが乗り込んでくると、町の人々は恐れて離れ、ムスリムは捕らえられて殺された。その知らせが届く前に、フサインは巡礼の大祭を前にしてメッカを発ち、家族と少数の支持者を連れてクーファへ向かっていた。途中で出会った詩人ファラズダクは、クーファの人々の心はあなたとともにあるが、剣はウマイヤ家とともにある、と告げたという。

ヤズィード軍とフサイン軍の位置
ヤズィード軍とフサイン軍の位置Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一行はユーフラテス川の西のカルバラーの野で、ウマイヤ朝の軍に行く手を阻まれた。数千の兵に囲まれ、川へ水を汲みに行く道も断たれた。決戦の前夜、フサインは従う者たちに、敵が求めているのは私一人だ、夜の闇にまぎれて去るがよい、と言った。だが誰も去らなかったと伝えられる。

イスラーム暦のムハッラム月の10日、アーシューラーの日の朝、戦いが始まった。フサインの側の戦える男は70人あまりに過ぎなかった。彼らは一人また一人と倒れていった。異母弟のアッバースは水を汲みに川へ向かい、途中で討たれた。フサインの腕に抱かれた幼い子も矢に射られたという。最後にフサインが倒れ、首が切り落とされた。生き残った女性たちと、病で戦えなかった息子のアリー(のちの第四代イマーム、ザイヌルアービディーン)は、捕らわれてクーファへ、さらにダマスクスのヤズィードのもとへ送られた。フサインの妹ザイナブは、ヤズィードの前でも臆せず兄の死を訴えたと伝えられる。

カルバラーの悲劇は、イスラーム世界に深い傷を残した。フサインを見捨てたことを悔いたクーファの人々は「悔悟者」を名乗って蜂起し、その後もフサインの仇を討つという名目の反乱が続いた。半世紀あまりのちのアッバース朝の革命(アッバース革命)も、預言者の一族の名を掲げて人々を集めた。アリーとその子孫だけを共同体の正しい指導者と認める人々の信仰は、フサインの死を軸に一つの宗派としてまとまっていった。

アッバース革命に関わる図版:Caliphate 750
アッバース革命Wikimedia Commons Sheperd, William R.; Historical Atlas; New York: Henry Holt and Company, 1911. 53. · Public domain

フサインの首がどこに葬られたかについては、カルバラー、ダマスクス、カイロなど、いくつもの伝えがある。体はカルバラーに葬られ、その上には金色のドームを戴く廟が建つ。毎年アーシューラーの日には、シーア派の人々がフサインの死を悼んで行進し、胸を打って嘆き、イランなどではその最期を演じる受難劇が上演される。死から40日目の「アルバイーン」には、ナジャフからカルバラーまでのおよそ80キロを、膨大な数の巡礼者が歩く。イラク政府の発表では、その数は一千万人を超え、世界でも最大級の人の集まりとされる。

フサインはスンナ派の人々にとっても預言者の孫であり、尊敬の対象である。ただ、その死の意味の受け止め方が、二つの宗派で大きく違った。勝ち目のない戦いに身を投じた彼の姿は、1979年のイラン革命をはじめ、近代になっても、抑圧に抗う人々の旗印として繰り返し呼び起こされている。

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