ムハンマド・ゴーリー
概要
アフガニスタンの山の国から北インドに出て、一度負け、翌年勝ち、デリーを取った。子がなく、奴隷出身の将軍アイバクに任せた。暗殺されたあと、その奴隷がデリーのスルタンになる。
所属
デリー・スルタン朝関わったできごと(1)
タラーインの戦いAD1192年 · 勝者本文
ゴールは、アフガニスタン中部のヘラートとカーブルの間に広がる険しい山岳地帯である。12世紀の半ばまで、この地の首長たちは東のマフムード・ガズナウィー以来のガズナ朝や、西のセルジューク朝に従う小さな勢力にすぎなかった。1150年、ゴールの首長アラーウッディーンは、一族の仇を討つためにガズナを攻めて七日七晩焼き払い、「世界を焼く者」と呼ばれた。ムイッズッディーン・ムハンマドは、その甥にあたる。1149年頃に生まれた。

1163年、兄のギヤースッディーンがゴール朝の君主になった。兄弟の仲は良く、兄は西のホラーサーンの支配を担い、弟は東を任された。1173年、ゴール朝はガズナを奪い、兄はそこを弟に与えた。ムハンマドはガズナを拠点に、インドへ向かう。ガズナ朝の歴代の王がそうしてきたように、インドの富は山の国の王にとって何よりの戦利品だった。
1175年、インダス川流域のムルターンを取った。1178年にはグジャラートに攻め込んだが、ソーランキー朝の軍に大敗した。このあと彼は、まずパンジャーブを固める道に切り替え、1186年、ガズナ朝の最後の王が逃げ込んでいたラホールを落として、ガズナ朝を完全に終わらせた。

次の相手は、デリーとアジメールを治めるチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージ3世だった。1191年、デリーの北のタラーインで両軍がぶつかり、ラージプートの軍がゴール軍を破った。ムハンマド自身も槍で傷を負い、馬から落ちかけたところを一人の兵に救われて、かろうじて戦場を離れたと伝えられる。後の史書は、ガズナに戻った彼が、戦場から逃げた部将たちの首に馬の飼い葉袋をかけ、町を引き回させたという話を載せている。
1192年、彼は12万とも言われる兵を率いて再びタラーインに来た(タラーインの戦い)。今度は正面からぶつからず、騎射の騎兵で敵を揺さぶり、退くふりをして誘い出し、疲れたところを精鋭で突いた。ラージプートの軍は崩れ、プリトヴィーラージは捕らえられて殺された。この勝利で北インドの扉が開いた。

1194年には、ガンジス川流域の大国カナウジのジャヤチャンドラをチャンダーワルで破った。征服を実際に進めたのは、ムハンマドが育て上げた奴隷出身の将軍たちだった。トルコ系の奴隷として買われ、軍人として取り立てられた彼らは、主人に忠実で、出身の家の後ろ盾を持たなかった。クトゥブッディーン・アイバクはデリーを拠点に北インドを押さえ、バフティヤール・ハルジーは東へ進んでビハールとベンガルに達した。この遠征の中で、仏教の大学院だったナーランダーなどの僧院が破壊され、インドの仏教は大きな打撃を受けた。
ムハンマド自身は、インドの征服を部将たちに任せ、たびたびアフガニスタンへ戻った。西では、急速に力を伸ばす中央アジアのホラズム・シャー朝と、ホラーサーンをめぐって争っていたからだ。1203年に兄が死ぬと、彼はゴール朝全体の君主になった。だが翌1204年、アム川の近くのアンドフードで、ホラズムと、その背後にいたカラ・キタイの連合軍に大敗した。インドでは彼が死んだという噂が流れ、パンジャーブの部族が反乱を起こした。

1205年、彼はパンジャーブの反乱を鎮めた。その帰途の1206年3月、インダス川のほとりのダミヤクに陣を張っていたとき、夕べの祈りの最中に刺客に襲われて死んだ。刺客がイスマーイール派の者だったのか、反乱を鎮められたパンジャーブのコーカル族だったのかは、史料によって異なる。
ムハンマドには男子がいなかった。13世紀の史家ジューズジャーニーは、その嘆きに答えた彼の言葉を伝えている。ほかの王には息子が一人か二人いるだけだが、私には何千ものトルコ人の奴隷がいる。彼らこそ私の息子であり、私の死後は私の名で王国を継ぐだろう、と。
その通りになった。彼の死後、ゴール朝の本体はホラズムに飲み込まれて10年ほどで消えた。だがインドでは、アイバクが1206年にラホールでスルタンとなり、奴隷出身の君主が続く王朝を開いた(デリー・スルタン朝の成立)。デリーにそびえるクトゥブ・ミナールの塔は、アイバクが建て始めたものである。以後、北インドは300年以上にわたってデリーのスルタンたちに治められ、のちにムガル帝国へと引き継がれていく。
インドにイスラーム教徒の王権を根づかせた人物として、ムハンマド・ゴーリーの評価は国によって大きく異なる。パキスタンでは英雄とされ、弾道ミサイルに「ガウリ」の名がつけられた。インドでは、プリトヴィーラージを悲劇の英雄とする物語の敵役として語られることが多い。