概要
アメリカのアンナ・ジャーヴィスは、南北戦争のころから、病気の予防や敵味方を超えた和解のために母親たちの集まりを率いた母を、1905年に亡くした。彼女は、母を偲び、すべての母親をたたえる日を作ろうと呼びかけ、1908年5月10日、ウェストヴァージニア州の教会で最初の催しが開かれ、フィラデルフィアのデパートでも大きな式典が開かれた。母が好きだった白いカーネーションが配られた。1914年、議会は5月の第2日曜日を母の日と定めた。だがアンナは、花屋やカード会社が母の日を商売にしていくことに怒り、晩年は母の日の廃止を訴えた。
場所
39.95°N -75.17°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
本文
アン・リーヴズ・ジャーヴィスは、ウェストヴァージニアの牧師の妻で、13人の子を産み、その多くを病気で失った。1850年代、彼女は地域の母親たちを集めて、衛生と病気の予防を学ぶ会を作った。南北戦争が始まると、母親たちは敵味方の区別なく傷ついた兵士を看病し、戦後には、北と南に分かれて戦った家族を和解させる集まりを開いた。
1905年、母アンが亡くなると、娘のアンナ・ジャーヴィスは、母の働きを偲び、すべての母親に感謝する日を作ろうと思い立った。彼女は政治家や新聞社、教会に何百通もの手紙を書き、フィラデルフィアのデパート王ジョン・ワナメーカーの支援を得た。
1908年5月10日、母が日曜学校で教えていたウェストヴァージニア州グラフトンの教会で、最初の母の日の礼拝が開かれた。アンナは、母が好きだった白いカーネーションを、参列した母親たちに配った。同じ日、フィラデルフィアのワナメーカーのデパートでも、数千人が集まる式典が開かれた。母の日は各地に広がり、1914年、ウィルソン大統領は、議会の決議を受けて、5月の第2日曜日を国の母の日と宣言した。
ところが、母の日が広まるにつれて、花屋はカーネーションの値段を上げ、カード会社やお菓子の会社が商品を売り込んだ。アンナは、印刷されたカードは自分で手紙を書く手間を惜しむ怠け者のものだと非難し、母の日の商業化と戦い続けた。抗議の集会で逮捕されたこともある。晩年には、母の日そのものを暦から外すよう求める署名を集めていた。彼女は生涯結婚せず、子を持たず、1948年に施設で貧しく亡くなった。
母の日は、アメリカから世界の多くの国に広がった。日本では、大正のころから教会などで祝われ、戦後、5月の第2日曜日に定着した。母が健在な人は赤いカーネーション、亡くなった人は白いカーネーションを胸につける習わしも、アメリカから伝わったものである。