ダホメの女性部隊

概要
王の親衛隊として、数千人の女性が正規の兵として訓練された。ヨーロッパの観察者が驚いて記録を残している。フランスとの戦争で、その大半が戦死した。
場所
7.18°N 1.99°E · ベナン(ダホメ王国の都)
関わった人(1)
ベハンジンAD1845年頃–AD1906年12月10日 · 最後の王本文
ダホメ王国は、いまのベナンの南部、ギニア湾から100キロほど内陸のアボメーを都としたフォン人の国だった。17世紀に起こり、18世紀の初めに王アガジャのもとで急に大きくなる。アガジャは1724年に南のアラダ王国を、1727年に海岸の港町ウィダを攻め落とし、ヨーロッパの商人と直接取引できる海への出口を手に入れた。その取引の中心にあったのが、奴隷だった(大西洋奴隷貿易)。
この王国に、女性の兵だけで作られた部隊があった。ヨーロッパの人々は、ギリシア神話の女戦士になぞらえて「ダホメのアマゾン」と呼んだ。フォン人は彼女たちを、王の妻たちを意味する「アホシ」、あるいは「われらの母」を意味する「ミノ」と呼んだとされる。武器を持つ女性たちの姿は、1729年ごろ、アガジャの時代のヨーロッパ人の記録にすでに現れる。

始まりについては、はっきりしないことが多い。王の狩りに仕えた女性の象狩りの一隊が始まりだという言い伝えがあり、宮殿の女性の護衛から育ったとする見方もある。ダホメの王宮には何千人もの女性が仕えていて、夜になると男性は宮殿の中にいられなかった。王の身辺を守るのは、女性にしかできない役目だった。
部隊が最も大きくなったのは、19世紀前半の王ゲゾの時代だった。ゲゾは度重なる戦で男性の兵が減ったこともあって女性兵を増やし、その数は数千人、多い見積もりでは6000人に達したとされる。王国の各家は娘を差し出すことを求められ、捕虜の娘が入れられることもあった。隊員は形の上では王の妻とされ、王の許しなく男性と関わることは許されなかった。その代わり、普通の女性には許されない地位と財産と発言力を持ち、宮殿の外を歩けば人々が道をあけた。

部隊は持つ武器で分かれていた。マスケット銃の隊、ラッパ銃の隊、弓の隊、象狩りの隊、そして巨大な剃刀のような刃物を振るう隊。訓練は苛酷で、イバラの茂みで作った高い柵を素足で越え、その先の砦に見立てた小屋を襲う演習を、イギリスの軍人フレデリック・フォーブスが1850年ごろに見て書き残している。痛みに耐え、敵の首を取ることを誇りとする歌も伝わる。1860年代に訪れたイギリスの探検家リチャード・バートンも、彼女たちの規律の高さを記した。
だが、この強さの裏には別の顔があった。ダホメの軍は毎年のように周りの村や国を攻め、捕らえた人々を海岸でヨーロッパの商人に売り渡した。王国の祭りでは、捕虜をいけにえとして殺す儀式も行われていた。女性部隊も、その戦いの先頭に立った。イギリスが奴隷貿易をやめさせようと圧力をかけると、ゲゾは一部をヤシ油の輸出に切り替えたが、奴隷の売買が完全に止まることはなかった。誇り高い女性兵の歴史と、奴隷狩りの歴史は、同じ制度の中で切り離せない。

19世紀の後半、ヨーロッパの列強はアフリカの分割を急いでいた(アフリカ分割)。フランスは海岸の港町コトヌーとポルト・ノヴォを足がかりに、ダホメへの圧力を強めた。1890年、王位を継いだばかりのベハンジンはフランスと戦い、女性部隊はコトヌーのフランス軍の陣地に突撃した。いったんは和議が結ばれたが、1892年にフランスは本格的な遠征軍を送る。指揮をとったのはセネガル生まれのアルフレッド・ドッズ大佐で、兵の多くはセネガルなど西アフリカから集められた兵士だった。
女性部隊は、連発銃と大砲を持つ遠征軍に対して、銃剣と刃物の白兵戦を挑んだ。フランス側の記録は、その勇敢さに驚嘆している。だが数週間の戦いの中で、部隊はほとんど壊滅した。生き残ったのは数十人とも言われる。ベハンジンはアボメーの宮殿に火を放って北へ逃れ、1894年1月に降伏して、カリブ海のマルティニークへ流された。ダホメ王国はフランスの植民地に組み込まれ、女性部隊は解散させられた。

生き残った元兵士たちは、その後の長い人生を、多くは語らずに過ごした。部隊の最後の生き残りとされる女性は、1970年代の終わりに100歳を超えて亡くなったと伝えられる。いまベナンでは、植民地支配に抵抗した戦士として彼女たちを記念する像が立ち、2022年にはアメリカで彼女たちを描いた映画も作られた。その一方で、奴隷を売った王国の兵を英雄として描くことには、ベナンの内外から批判の声も上がった。どう記憶するかは、いまも定まっていない。