グレタ・トゥーンベリ
概要
15歳で議会の前に座り、1年後に世界の400万人を歩かせた。国連で「よくもそんなことを」と言った。
関わったできごと(1)
気候のための学校ストライキAD2018年8月20日 · 始めた本文
2003年1月、スウェーデンのストックホルムで生まれた。母はオペラ歌手、父は俳優で、ごく普通の、比較的恵まれた都会の家庭だった。

8歳のころ、学校の授業で気候変動のことを知った。氷河が溶け、海面が上がり、動物が住む場所を失っていく映像を見た。大人たちは、それが本当なら大変なことだと言いながら、何も変えずに暮らし続けている。本当にそれほど深刻なら、ほかのことは話題にならないはずではないか。彼女にはそれが理解できなかった。
11歳のころ、深い鬱に陥った。食べなくなり、2か月で10キロ近く痩せ、家族以外とはほとんど話さなくなった。医師はアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)と強迫性障害、場面によって話せなくなる選択性緘黙と診断した。のちに本人は、自分の特性を「超能力」と呼んでいる。物事を白か黒かで見て、関心のあることから気をそらされない。だから、皆が見て見ぬふりをしていることを、そのまま見てしまう、と。

最初に説得したのは家族だった。彼女は気候についての資料を集め、両親に見せ続けた。家族は肉をやめ、母は飛行機での移動が必要な国外での公演をやめた。自分の家族が変われるなら、ほかの人も変われるはずだと考えた。
2018年8月20日、15歳の彼女は学校へ行かず、ストックホルムの国会議事堂の前に座った。手書きの看板には「気候のための学校ストライキ」と書いてあった。9月の総選挙まで、スウェーデンがパリ協定の目標に沿った対策を約束するよう求めて、毎日そこに座ると決めていた。初日は一人だった。通りがかりの人の多くは素通りし、なかには学校へ行けと言う人もいた。

写真がSNSで広まり、数日のうちに仲間が加わった。選挙の後も、彼女は毎週金曜日に議事堂の前に座り続けた。「未来のための金曜日」と呼ばれるようになったこの行動は、ヨーロッパからオーストラリア、アジア、アメリカへと広がっていく(気候のための学校ストライキ)。2018年12月、ポーランドで開かれた国連の気候会議に招かれ、各国の代表を前に、あなたたちは自分の子どもを愛していると言いながら、その目の前で子どもたちの未来を盗んでいる、と演説した。翌年1月、スイスのダボスに集まった経済界の指導者たちには、私たちの家は燃えている、希望ではなくパニックを感じてほしい、と語った。
2019年9月20日、世界の150を超える国で、気候のためのストライキが一斉に行われた。参加者は主催者の発表で400万人を超え、翌週の行動と合わせると600万人以上になったとされる。気候の問題で、これほど多くの人が同時に街を歩いたことはそれまで無かった。

その直前、彼女はニューヨークの国連本部で開かれる気候行動サミットに向かうため、大西洋を帆走のヨットで渡った。飛行機は二酸化炭素を多く出すため、乗らないと決めていたからである。イギリスのプリマスを出て、ニューヨークまで15日かかった。
9月23日、国連の演壇に立った彼女は、怒りに声を震わせて言った。私はここにいるべきではない、海の向こうで学校に通っているはずだった。あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢と子ども時代を奪った。生態系全体が崩れ始めているのに、あなたたちが話すのはお金と、永遠に続く経済成長というおとぎ話だけ。よくもそんなことを、と。この演説は世界中で繰り返し流された。同じ年、アメリカの雑誌『タイム』は彼女を「今年の人」に選んだ。16歳で、史上最年少だった。

批判も激しかった。アメリカの大統領やロシアの大統領、ブラジルの大統領が、名指しで彼女を皮肉ったり、子どもが利用されていると言ったりした。感情に訴えすぎる、解決策を示していない、という批判もあれば、障害をあげつらう中傷もあった。そのたびに彼女は、私の言うことではなく、科学者の言うことを聞いてほしい、と繰り返した。彼女が演説で示す数字の多くは、1988年に国連の機関として作られた気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書から取られている(IPCCの設立)。
2023年、高校を卒業した彼女は、最後の学校ストライキを終えた。以後も気候の運動を続けているが、その範囲は広がり、先住民の土地の権利や、パレスチナのガザでの戦争にも声を上げるようになった。とくにパレスチナをめぐる発言は、運動の内部も含めて大きな論争を呼び、2025年には、ガザへの支援物資を積んだ船に乗り込み、イスラエル軍に拘束されて国外に送られている。

一人の少女が議事堂の前に座ったことで、気候の問題を語る声に若い世代が加わった。各国の政策がどれだけ変わったかについては評価が分かれるが、気候変動が「将来の誰かの問題」ではなく「いま生きている子どもたちの問題」として語られるようになったことに、彼女が果たした役割は大きい。