人物

ヴィクトリア女王

Queen Victoria
AD1819年5月24日 – AD1901年1月22日(享年81)
イギリス重要度 4

概要

63年在位し、その名が時代の呼び名になった。この間に英国は世界の4分の1を版図に収める。

関わったできごと(2)

ロンドン万国博覧会AD1851年5月1日 · 開会したヴィクトリア女王即位60年AD1897年 · 当人

本文

1819年5月24日、ロンドンのケンジントン宮殿で生まれた。父ケント公は国王ジョージ3世の四男で、娘が生まれて8か月後に病で亡くなった。母はドイツの小さな公国の出身だった。ジョージ3世の息子たちには、王位を継げる嫡出の子がほとんどいなかった。生まれた時点で王位継承順位は5番目だったが、伯父たちが次々に亡くなるか子を持たないまま年を取り、少女はやがて王位の推定相続人となった。

ヴィクトリア女王(即位50年記念、ゴールデン・ジュビリー)
ヴィクトリア女王(即位50年記念、ゴールデン・ジュビリー)Wikimedia Commons Alexander Bassano · Public domain

育ち方は窮屈だった。母と、その側近のコンロイは、将来の女王を自分たちの影響下に置こうと、少女を同じ年頃の子どもからも宮廷からも遠ざけた。階段を下りるときは必ず誰かに手を引かれ、夜は母と同じ寝室で眠った。家庭教師の回想によれば、10歳の頃、歴史の勉強のために渡された系図で、自分が王位に近いことを初めて知り、「私はよい子になります」と言ったという。

1837年6月20日、伯父ウィリアム4世が亡くなり、18歳で即位した。即位して最初にしたことの一つは、自分の寝台を母の寝室から運び出させることだった。小柄で、身長は150センチほどしかなかった。政治の手ほどきをしたのは、首相のメルバーン卿である。彼女は年の離れたこの首相を父のように慕った。

1840年、ドイツのザクセン・コーブルク家出身の従弟アルバートと結婚した。君主である彼女の側から求婚した。二人の間には9人の子が生まれた。夫は真面目で勤勉な人物で、やがて女王の秘書役として政務を支えるようになった。1851年のロンドン万国博覧会は、アルバートが中心となって実現させたもので、ガラスと鉄で造った巨大な水晶宮に、世界一の工業国となったイギリスの力が並べられた(ロンドン万国博覧会)。1853年、8人目の子を産むとき、女王はクロロホルムによる麻酔を受けた。女王が受けたことで、出産の痛みを和らげることが広く受け入れられるようになったと言われる(女王の無痛分娩)。

ロンドン万国博覧会に関わる図版:The Crystal Palace in Hyde Park for Grand International Exhibition of 1851
ロンドン万国博覧会Wikimedia Commons Read & Co. Engravers & Printers · Public domain

1861年12月、アルバートが42歳で急死した。女王は打ちのめされ、それから40年、亡くなるまで黒い喪服を着続けた。夫の部屋は生前のまま保たれ、毎晩、着替えと湯が用意されたという。女王は公の場にほとんど姿を見せなくなり、年に何か月もスコットランドの城やワイト島の離宮に籠もった。国民の間には、国費で養われながら務めを果たさない君主は要らない、という声が高まり、1870年頃には共和主義の運動が勢いを得た。

女王を表舞台に引き戻したのは、保守党の首相ディズレーリだった。ディズレーリは女王を巧みにもてなし、女王もまた彼を重んじた。1876年、議会は女王に「インド女帝」の称号を贈った。1857年のインド大反乱の後、東インド会社によるインド支配は終わり、インドはイギリス国王が直接治める地になっていた。対照的に、自由党の首相グラッドストンを女王は嫌った。彼は私に、まるで公の集会で演説するように話す、とこぼしたと伝えられる。

インド大反乱に関わる図版:Indian Rebellion of 1857
インド大反乱Wikimedia Commons Unknown author Unknown author Cambridge University Press; Stanford's Geogl. Estabt.. · Public domain

即位したとき、イギリスの君主はまだ、首相の選び方にも政治の行方にも口を出せる存在だった。だが、選挙権を持つ人が広がり、議会の多数派が政府を作る仕組みが固まるにつれて、女王が自分の好みで政治を動かす余地は狭まっていった。女王は大臣たちに意見を書き送り続けたが、最後に決めるのは議会と内閣になった。王は助言し、励まし、警告することはできても、統治はしない、という立憲君主の形が、この長い治世のうちに定まっていった。

その間に、イギリスは大きく変わった。国中に鉄道が敷かれ、工場の煙が空を覆い、ロンドンは世界の金融の中心になった。海の向こうでは、インドからアフリカ、オーストラリア、カナダまで、大英帝国は地球の陸地の4分の1近くを覆うまでに広がった。その時代は、女王の名を取ってヴィクトリア朝と呼ばれる。勤勉、家庭、礼儀を重んじる中産階級の道徳もまた、ヴィクトリア朝風と呼ばれるようになった。

晩年の女王は、インド人の従者アブドゥル・カリームを重く用い、彼からヒンドゥスターニー語を習った。側近たちは身分の低い外国人への寵愛に眉をひそめたが、女王は譲らなかった。生涯に何度も銃を向けられたが、いずれも無事に切り抜け、そのたびに人気が増したと言われる。1887年に即位50年、1897年に即位60年の式典が開かれ、ロンドンの街は帝国の各地から来た兵士たちの行進と、女王を祝う群衆で埋まった(ヴィクトリア女王即位60年)。

ヴィクトリア女王即位60年に関わる図版:The Royal Service at St Paul's Cathedral (01)
ヴィクトリア女王即位60年Wikimedia Commons Attributed to Argent Archer / London Stereoscopic and Photographic Company · Public domain

9人の子どもたちは、ヨーロッパ各国の王家と縁組みした。孫には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇后アレクサンドラ、のちのイギリス国王ジョージ5世がいる。女王は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた。女王は血友病の遺伝子を持っており、それは娘たちを通じてロシアやスペインの王家の男子に受け継がれた。ロシアの皇太子アレクセイの病は、その一つである。

1901年1月22日、ワイト島の離宮オズボーン・ハウスで亡くなった。81歳。在位は63年7か月に及び、2015年にエリザベス2世に抜かれるまで、イギリスの君主として最も長かった。臨終の床には、孫のヴィルヘルム2世も駆けつけていた。その13年後に始まった第一次世界大戦で、ドイツ皇帝とイギリス国王とロシア皇帝の妻という、女王の孫たちは敵と味方に分かれて戦うことになる。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

なお、女王の口癖として知られる「私たちは面白くありません」という言葉は、実際に言ったかどうか確かな証拠が無い。孫娘の一人は後年、祖母はよく笑う人だったと語っている。

動画(1)

135 19世紀イギリス後半ヴィクトリア時代 世界史20話プロジェクト第14話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第135講「19世紀イギリス後半ヴィクトリア時代」
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