人物

マリア・テレジア

Maria Theresa
AD1717年5月13日 – AD1780年11月29日(享年63)
ハプスブルク帝国重要度 4

概要

相続を認めないと戦争を仕掛けられ、それを凌いで40年治めた。義務教育の導入など制度を作り替える。

関わったできごと(3)

オーストリア継承戦争AD1740年 · 守る側マリア・テレジアの統治1740年 · 当人家に番号を振るAD1770年 · 数え上げを命じた

本文

1717年5月13日、ウィーンに生まれた。父は神聖ローマ皇帝カール6世。ハプスブルク家には男子が育たず、父は娘に領地をそっくり継がせるため、「国事詔書」と呼ばれる取り決めを作り、ヨーロッパの国々に認めさせて回った。その代わりに譲歩を重ねたが、娘に政治の手ほどきはほとんどしなかった。

マリア・テレジアの肖像
マリア・テレジアの肖像Wikimedia Commons Martin van Meytens · Public domain

1736年、ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚した。王家の結婚としては珍しく、本人が望んだ相手だった。夫婦仲はよく、二人の間には16人の子が生まれることになる。

1740年10月、父が死んだ。23歳で、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどの広い領地を継いだ。その2か月後、プロイセンの若い王フリードリヒ2世(大王)が、豊かな工業地帯シュレージエンに攻め込んだ。父が各国に認めさせていた相続の約束は守られなかった。バイエルン、フランス、スペインなども次々に領地を狙って加わり、オーストリア継承戦争が始まる。国庫は空で、軍は弱く、大臣たちは老いていた。

オーストリア継承戦争に関わる図版:War of The Austrian Succesion Collage 1
オーストリア継承戦争Wikimedia Commons DavidDijkgraaf · CC0

1741年、ハンガリーの議会で支援を訴えると、貴族たちは「我らの命と血を女王に」と叫んで兵を出すことを約束した。このとき生まれたばかりの息子ヨーゼフを抱いて立ったという絵になる場面は、実際とは違うとされる。事前にハンガリー貴族の特権を認める交渉があり、場面は周到に準備されていた。それでも、ハンガリーの兵が加わったことで、戦争の流れは変わった。

1745年、夫が皇帝に選ばれた。1748年の講和で領地のほとんどを守ったが、シュレージエンは取り戻せなかった。豊かな土地を失った悔しさが、その後の政治を動かした。

少女時代のマリア・テレジア
少女時代のマリア・テレジアWikimedia Commons Andreas Møller · Public domain

戦争に勝てなかったのは国の作りが古いからだと考え、作り替えに取りかかった。それまで地方の貴族の議会が握っていた税と軍を、ウィーンの役所に集めた。貴族や聖職者にも税を課し、常備軍を整え、士官学校を開いた。外交では、長年の宿敵だったフランスと手を結ぶという大転換を行い、シュレージエンを奪い返す準備を整えた。

1756年、七年戦争が始まった。一時はベルリンを占領するほどプロイセンを追い詰めたが、最後は取り返せないまま講和した。1765年に夫が急死すると、長男ヨーゼフ2世が皇帝となり、母子で共に治めることになった。急ぎすぎる改革を望む息子と、慎重な母は、しばしばぶつかった。

婚礼の日の朝食
婚礼の日の朝食Wikimedia Commons After Martin van Meytens · Public domain

1772年のポーランド分割には、道義に反するとして強く反対したが、最後は加わって南部の土地を得た。プロイセンのフリードリヒは「彼女は泣いた。だが受け取った」と皮肉ったと伝えられる。

1774年には、6歳から12歳までの子どもに学校へ通うことを義務づける学校令を出した。読み書き計算を教える学校を村ごとに置き、教員を養成する学校も作った。プロイセンの義務教育を手本にした面がある。子どもたちを天然痘で失ったことから、宮廷で種痘を取り入れ、人々に広めることにも力を入れた(マリア・テレジアの統治)。

ハンガリー女王として
ハンガリー女王としてWikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

16人の子のうち10人が成人した。娘たちはヨーロッパ各地の王家に嫁がせ、末娘のマリー・アントワネットはフランスの王太子に嫁いだ。かつての宿敵フランスとの同盟を固めるための結婚だった。嫁いだ娘たちには、こまごまとした忠告の手紙を書き送り続けた。

1762年、シェーンブルン宮殿に6歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが招かれ、皇后の前で演奏した。演奏の後、少年は皇后の膝に飛び乗って首に抱きつき、キスをしたと、父レオポルトが手紙に書いている。宮殿の広間には子どもたちの笑い声が絶えず、皇后自身も素朴な家庭の母として振る舞うことを好んだ。

治世初期の肖像(ジャン=エティエンヌ・リオタール画 1743~1745年頃)
治世初期の肖像(ジャン=エティエンヌ・リオタール画 1743~1745年頃)Wikimedia Commons Jean-Étienne Liotard · Public domain

公式の称号は皇后であり、女帝ではない。皇帝の位は夫、ついで息子のものだった。それでも40年にわたって国を実際に動かしたのは彼女である。夫を亡くしてからは、生涯喪服で通した。1780年11月29日、ウィーンで亡くなった。63歳だった。オーストリアでは今も「国母」と呼ばれ、ウィーンの広場には大きな像が立っている。

動画(1)

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